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zoom RSS 牛居構居 加西市

<<   作成日時 : 2017/04/17 21:05   >>

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県立フラワーセンター側からは、県道716号線の中西町・琵琶甲町交差点を過ぎ南へと下り坂が続く直ぐ先・右手に牛居大歳神社があり、境内に牛居城主:牛居之祐顕彰碑と碑文がある。立地環境からもL字状高土塁で囲まれる神社本殿…が牛居城(牛居構居)跡と推定できるが、居館跡?を示す字名「殿垣内」は神社南下の圃場にある。
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下里川を濠に取込むには少し距離がある。牛居町中央部・公会堂前を北上し琵琶甲町交差点(県道716号線)に出るジモティ・ロード!!上り坂途中に方形土塁囲み状の田圃(空地?)二枚続きを見掛ける。車道筋が善防城に繋がる旧道であれば”此処が牛居構居”に相応しいとも想える地形。大歳神社から約150m程の距離なので、構居を示す「垣内」は主君の家族や家臣屋敷だった?とも…。
  字「殿垣内」側からの大歳神社
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県道筋は何度か往復したが、立ち寄るのは15年ぶりか?。播磨・備前・美作3国守護として巨大な勢力を誇っていた赤松家一族の中村氏は別所・小寺・在田<有田>等とともに赤松三十六家の一。金鑵山城中村六郎友之の嫡男で幼名:松千代丸が此処に居を構え牛居之祐(介・助)吉早を称し、その活動時期が嘉吉年間とも・永禄や天正ともされ、時空を越え同姓同名の”吉早”が二人存在している!!。築城時期からは善坊山城:赤松則繁の城代家老だったとも云われ、善坊山城が赤松一族・中村氏には詰め城でもあったと思われる。伝承の謎の人物・中村牛居之祐吉早については諸説あり、構居(城)の所在についても確証されていない…!!?。
   
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牛居町は近年まで全戸が中村姓と前田姓だけの一族の村だったと聞く。長年、架空の人物とされていた城主・中村牛居之祐(介・助)吉早について、その末裔にあたる地元の前田氏兄弟(両氏ともにメールにコメントや教示を戴いた)等による研究の成果「…吉早”ある武将の謎を追って”」の労作に依るところは大きい。中村家惣家筋は昭和16年当主の死去により男子系は断絶したという。
   牛居之祐吉早の顕彰碑と大歳神社を囲むL字状土塁!?
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中村牛居之祐父子は別所方に付き三木合戦の始まる天正6年(1578)には、赤松一族:在田氏を頼ってか?【多可郡八千代区野間の花ノ宮に移っている。此処に花ノ宮砦!?があるが、野間城砦群の一つで別所重棟に攻められ先の天正3年落城している】花ノ宮に移り帰農したものか不詳?だが、嫡男を牛居城に入れ別所長治に付き出陣させている。三木城開城後牛居の戻った様だが嫡男の其の後も不詳!!。
   
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丹波の中村氏一族:吉早の夫人「豊ノ前」は嫡男と牛居構居にいた様だが嫡男の三木城出陣の際に、三児を連れ縁故?を頼って彼方此方・転々としながら生家の丹波市市島町(但馬竹田説もあるが<丹波市市島町>竹田の誤りか?、また加東市三草の説も?)方面へ逃避の途中で道に迷い丹波市山南町奥野々の地に辿り着いた(慶長元年1596年頃?)は落城から既に20年あまり。ひとまず此の地に落着いた。仮住いのつもりがそのまま定住し、其の子孫たちが土地を開墾し農地を拡げて代々・中村姓を名乗った。
   境内から望む字「殿垣内」と善防山(善防城)
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「豊の前」の墓石には奥野々中村家先祖として祀られるのが慶長19年甲寅3月2日…奥方と再婚した利兵衛(姓不詳)の戒名:禅昌院…、吉早の奥方:久昌院豊山妙秋大姉が奥方で元和元年(1615)とある・・・。今も交流が続けられている多可郡野間谷【牛居之祐吉早・終焉の地とされる】の中村姓一族からの寄付もあって昭和15年(1940)の墓所改修された。<久下自治振興会発行資料参照したが、 奥方の逃避行を多可郡野間城落城時の永禄年間(1560頃)とされ、10年程の差異があるが、「豊の前」の逃避行は三木合戦絡みの年代として見直している…!!>

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