晩秋の岩尾城④  (石の城) 

丹波市山南町の蛇山山頂に在る岩尾城は戦国時代の山城で谷氏の婿養子として入った和田日向守が養父:谷氏を刺殺して岩尾城を築きます。
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篠山川と佐治川(加古川)の合流点が東播磨から丹波に入る南口にあり、此処から加古川となり播磨灘へと流れ出ます。其の要衝を正面に見据えて、西は北播磨・但馬生野方面から坂尻峠を越えて丹波に入る。城下を通過せず西北から応地坂(今はトンネルで抜けるバイパス)を氷上・柏原へ通じる間道をも、眼下に監視出来る位置にあって、其の重要性から・・天正7年(1579)明智光秀の丹波攻めに落城したが、後年:木戸十乗坊(佐野下総守と名のった)が城主となり、織豊系の築城様式を取り入れた総石垣造りの岩尾城が再建されました。
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豊臣秀吉の廃城令で取り壊されたが本丸・西の丸・天守台跡を始め、いくつかの山城遺構を、一角には古城の曲輪・土塁をも残し、戦国~近世の歴史の変遷をとどめている事で高く評価されています。近世の石城への改修に尾根筋の竪堀も補強さえたものか?
    西の丸西面の打ち込みはぎが見られる石垣を廻り込み枡形虎口を本丸に入る
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大手門付近から南曲輪にかけての西には尾根から少し外れたところにも大y竪堀が数条・石積井戸前のY字状竪堀は、その落ち口にも石積みが見られ、古城の堀切を過ぎて西への尾根筋にも、竪土塁と竪堀が走る。この竪堀は長く、新城から人間地獄へのトラバース道を越えて更に急角度で落ちていきます。
兵庫丹波の山城からは、大規模な竪堀例を余り見かけないので新城改修時のものと勝手に思ってしまったが、城主:和田氏は信濃国南和田の人・中世信州の山城遺構は知らないが、但馬の城の様に竪堀の手法が良く取り入れられているのかも知れません? 全国の城廻りどころか近畿の有名な!!?城さえも・まだまだ未訪が多くて・・
     Y字状竪堀の落込む処にも石積井戸確保の石積(土留めか)
     清水を湛える井戸水は竪堀に染み(流れ)出てもいない!・・・!?
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