山崎城 福知山

天気が良い日は霧が深く、午前10時過ぎても 山の姿が見えず、土地勘のない場所に来ての山城探しと其の取付点探しには苦労します・・・・・
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やっと山頂の霧が消えかかった稜線を目で追って、その丘陵先端部に位置する山崎城に向かいます。車道に落ち込む丘陵先端に段曲輪・堀切・切岸を登ると広い主曲輪に着く。山側の端に土塁が見える。幅広い土塁の右端は、さらに明るく広い居住空間を感じさせる平坦地に出る通路。土塁の左手は小広い土壇の櫓台か、兵庫丹波・丹後への街道筋(R429号線)の拝師地区を南に望む。
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拝師から北へ夜久野をへて但馬へ向う街道に接する山崎城は、和久川沿いに但馬に入る街道監視の城砦だったのでしょう。丹波・天田・何鹿三郡を支配した黒井城主:赤井氏の烏帽子山城が山崎城の西方国境尾根にあり、但馬山名氏の天田郡側からの侵攻を監視する、其の前衛の出城だったとも考えられるのですが・・・?
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民家の裏山で直ぐ下は果樹園・今は立木跡等、何も無い広い台地は近年に改修されているのかもしれません?
主郭の土塁の傍・一段低い台地からの尾根続きは山頂に向かって一気の斜度を増して急登となる。其の上方にも平坦地と空掘状の窪地がある。砦規模以上の縄張りが予想され、山頂部にかけて「逃げの塞砦」「逃げの城」が築かれていても・・・?・・と思うが他に探索予定の城もあり、遺跡分布範囲内を廻って下山した。

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この記事へのコメント

べーさん
2008年12月07日 09:06
今安城のところにコメントしましたが、
山頂部には特に遺構らしきものは確認できませんでした。
ただ、10数年前のことなので、もっとしっかり探索すればあるいはあるかもしれませんが・・・
これもすでに書きましたが、城域に隣接した高石垣の民家のあたりに城主の屋敷があったとの伝承があります。
城域は北の製材所あたりまで尾根筋が伸びていて、そこまで遺構があったかも知れませんが、失われていて惜しいですね。
べーさん
2008年12月07日 09:18
余談ですが、六十内城のふもとに
手つかずで残る中世寺院跡が残っています。
壇上の寺域と積石墓、石塔群が生々しく点在しています。http://image.blog.livedoor.jp/besan2005/imgs/4/8/48a5011d.jpg
確か福知山市の遺跡地図「六十内古墓」という名前で登録されてますが、寺院跡遺構は書かれてないようですね。
2008年12月07日 23:14
べーさん 今回は古墳まで目が行きませんでしたが、今安城西北麓や、名前で察知できた額塚等は、半田の車両基地付近の狸谷城等、消滅していなければ探訪したいと考えていますので、其の時にでも2~3の古墳も探してみたいものです。姫髪山城が山頂にも遺構が有りそうなので六十内城も併せて訊ねてみたいとも・・思います。
この宝筐印塔は 随分古い時代のものですね。六十内城も南朝~中世は細川方に、又蘆田・塩見・赤井氏等の天田郡領主の下で 其々の城史を綴ってきたのでようかね?
べーさん
2008年12月08日 17:10
隅飾の感じを見たら、確実に鎌倉期は
ある宝筐印塔です。
昔探索したときは、中世末~近世まで下る石塔は見受けられなかったので、
室町中期ごろで廃絶してしまった寺院だったのではと思います。
六十内の集落の人は、塩見氏と並ぶ有力領主の一つであった桐村氏の子孫が多いですね。

地元なので、色々と案内ができればいいのですけど。
2008年12月08日 22:48
べーさん どうも・・です
桐村氏・・・ですか!!
建武の新政に:鎌倉時代末期頃に丹波天田郡金山郷へ来住した関東御家人には常陸国からの桐村氏・金山氏がありますね・・・

天文年間を頂期として?台頭した桐村氏 永禄年間には衰退したようなので 拝師城関連の武士の碑と重ねてみると 塩見・横山氏に属していたが 黒井城赤井氏の天田郡侵攻に対向して敗れたものか? 明智丹波攻めでは明智方にいたものか赤井氏滅亡後に旧領に復帰したようですね。
福知山史談会・・等の資料が見られれば 何かが分ってくるかも知れませんが、閲覧機会が無いですね。丹波市や県中央の図書館貸出でもあれば・・・と思いますが郷土資料・市史関連は在っても館内閲覧でしょうから・・・ 

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