蟲生城 西脇

加古川の左岸・丹波市と西脇市の間に旧多可郡黒田庄町(現:西脇市に編入)がある。北方から南西へ延び出す丘陵部が加古川に最も迫り出してくる上比延地区を抜けると、「日本のへそ公園」がある東経135度線・北緯35度線が交差する「経緯度交差点」。うっかり通り過ぎてしまうほど狭い地区道を直ぐ東山裾にある福地地区へ向うと、細い集落を抜けて御霊神社前に出る。始めてだと地図の読図に長けるか・GPSに頼らなければ、屈曲した変則交差点や、何年も前から通れるのに通れない?広い直線道路沿いに、此処までなかなか行き着けない?。
        蟲生城土塁からの主郭内部
画像

先のブログ紹介の蟲生城館・蟲生新城館・そして今日メインの蟲生城が在ります。xx?村上氏の祖と云われる村上霜台が応永年間(1394-1428)九条家から黒田荘内に采地【官職に付いている者が与えられる領地】を与えられて下国し、播磨守護職・赤松氏の被官となっており、応永26年(1419)村上盛弘が黒田荘を 20貫文で九条家から代官請けしています。嘉吉の乱(1441)に没落したが、康正2年(1456)赤松家再興を期しての吉野討入りした赤松浪人の一人:村上源三郎が名を連ねています。
          蟲生城主郭・東端部の土塁を積む切岸
画像

再興成った赤松家に旧家臣団の活躍の場は・・? 新進気鋭?・別所氏の台頭が目立ちます。天正年間(1573-92)に至り、「三木城別所攻め」に村上氏は秀吉方について従軍しています。小野市付近を境に?北播磨側の領主の多くは秀吉方についたり、貢物を贈ったりしているようです。秀吉方への抵抗や、三木城への援助・援軍等の行動は未調査のままに推論ですが・・!?? 
          西面の帯曲輪から一折れして主郭に入る虎口
画像

蟲生城館のある墓地を抜けると稲荷社の鳥居を潜り、山裾南面を廻り込む堀切というより、後世の灌漑用の疎水か誘水溝に渡された板橋を渡り、落葉と滑りやすい露岩混じりの斜面を登り着くと稲荷社に着く。さらに西への緩斜な根を辿ると、埋もれた堀切を越え、主郭の南面に帯曲輪を、主郭の東端には土塁線を遺す蟲生城(福地城)に着く。主郭中央付近に石の礎壇が残り、元は此処に稲荷社が祀られていたようです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック