貝野城 多可郡

妙見富士とも多可富士とも呼ばれる妙見山(2等 693m)は近畿・関西100山からは当外ですが、ふるさと兵庫50山からも選外の不遇な山です。そのほうが良かったと・・静かな山歩き・歴史散策が楽しめます。登山口近くには北播磨余暇公園・登山口には東山古墳群・周辺一帯には鉱山跡の坑口や精錬跡、伝説には「あまんじゃこ<天邪鬼>の忘れ石」、山頂からの展望も良好、山頂からの尾根続には城山(貝野城)・妙見砦・向山へ進路を変えれば段の城の高城・築ヶ鼻城と・此れを詰め城とした段垣内構居があり、遺構も良好に残る為キャスリングを兼ねての登山も満喫できます。
     ”伝:馬つなぎ場”西面の石垣(下方には畦状竪堀群)
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R427号を走っていて、伐採され山頂部が山城の姿を見せている貝野城に、久しぶりに再訪する。此処1~2年内で城山公園整備され、妙見山3合目鞍部からの激急斜面にも木製階段が付けられていた。曲輪の状況も雑木藪から解放されて見易い・・・が、このままだと切岸・石積の崩壊等が気掛り。
       貝野城:南ノ丸の石垣(4~6段程)
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宿命のライバル播磨赤松氏と但馬山名氏ですが、嘉吉の乱に没落した赤松氏も応仁の乱に播磨を回復するが、旧赤松家家臣団は新赤松家臣団として台頭してきた別所氏の介入に、東条谷の依藤氏等【永禄2年(1559)】が滅ぼされて北播磨侵攻の拠点となっています。赤松政則が生野・真弓峠に大敗を喫すると、政則を追放し赤松家は分裂・・但馬・丹波国境に近い在田(有田)氏は、妙見山まで延びてきている生野鉱脈の開発技術・生野鉱山の輸送ルート等で山名氏と共存共栄の関係にあったようです。
     ”伝:馬つなぎ場”から本丸側・バックの山影は妙見山
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文明年中(1469-87)山名政豊から多可郡松井荘の知行を得て、山名四天王の一:太田垣氏を代官として防御施設を施して居城したとの説も有るが、石垣はともかく畦状竪堀群の存在は播磨赤松氏の城には珍しく、播磨守護山名氏からの関連や、短期間ではあっても・在田氏とは同盟関係に有り、また此の地に山名氏方が城を築き・また改修して居した説は有力ですね!!?。天正3年「荒田城合戦」が起こり、東条谷(加東市)の依藤氏を攻め滅ぼした豊地城:別所重棟が、中区の森本城主や丹波朝日城主:荻野直正(後に黒井城主)等の連合軍で夜襲をかけ・貝野城・段ノ城を落とし八千代区の野間山城も翌日には落城。連合軍の森本城主も後に別所氏に攻め落とされます。悲話を留める若宮神社・・・等、ホームページの貝野城・段ノ城を御覧下さい。

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