屋口城 小野市

豊地城の外堀ともなった中谷川を挟んで南西方の低丘陵尾根の北端部に屋口城が在りました。豊地城の支城として機能したと思われる山城には4っばかりの切岸加工された曲輪を尾根沿いに梯郭式に並べ、土塁囲み・深い空堀・主郭や北に続くⅡ郭・Ⅲ郭には土塁を積む虎口らしい箇所を見る。
    屋口城Ⅱ郭:西面の空堀に沿う土塁線
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依藤氏以前の豊地城は、観応2年(1351)足利尊氏に属して光明寺合戦(滝野)に出陣して討死にした吉田左衛門尉伊賀守顕久が居城していたと云われ,現在残されてる遺構からは戦国期・永禄年間(1558-70)豊地城の支城として築城され別所重棟の家臣:吉田伊賀守盛秀が在城したとも云われます。
     屋口城主:吉田伊賀守の五輪塔
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吉田伊賀守の墓所とされ大きな五輪塔が祀られる位置は、豊地城・屋口城との三角形の対角線上に有り、以前は雑木薮の中にあったが、代官屋敷跡でもあった様?。東条谷の荘園官吏だったか?、屋口城の出曲輪・豊地城の砦だったのかも?豊地城同様・別所氏の支城群として大きく改修されたものでしょう。吉田伊賀守の五輪塔:台座には、なぜか?小野藩初代藩主となっている一柳家の家紋「釘貫紋」が彫られています?!!?が吉田伊賀守と一柳家の関連は不明です・・?

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この記事へのコメント

kan
2011年01月19日 22:36
むかし父から、先祖は吉田伊賀守というのだ、と聞いたことを思い出して、試しに検索してみました。ありがとうございます。驚きました。我が吉田家の紋は丸に釘抜きですので、一柳家とは偶然おなじなだけではないでしょうか。
天々宇知栗
2011年01月20日 11:38
Kanさん コメントありがとうございます
吉田氏は南北朝期:東条谷を拠点とし、南朝方の金谷経氏(に田義貞一族)と行動を共にしていたと考えれば、後:脇屋義助(にったよしさだの次男)にも従い伊予(愛媛県)に赴き、其の後も伊予の留まっていたのかも?。家紋との関連は不明ながら伊予国守護職の一柳氏(越智氏)と関わりはあったと思えますね!!。
●一柳氏は二重釘貫紋ですね・・ 
金谷氏は観応2年(1351)石清水八幡宮(京都府)の戦いに敗れ自刃しますが、吉田氏はその頃には北朝方に付き、更に旧赤松家臣:依藤氏の旧領地を、新赤松家臣として台頭してきた別所氏に付いて回復したのかも?。現状の屋口城は予想以上の大規模平城で別所重棟の大改修・屋口城も同時期、最後の城主吉田氏により改修されたものと思えますね。その後は帰農したとも、重棟について転戦・但馬八木城へと付き従ったかも不詳ですが・・

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