殿原城 加西市

西脇市方面からは県道24号線で加西市に入り、北側の殿原町から中国自動車道の高架を南へ抜け出た処が笹倉町の加西IC。其処から真西約400m程の地点に「方形館城」の殿原城(笹倉城)が在りました。地名・城砦名や城主・家紋等が自身に関連有りそうで、予々:赤松氏に仕えた在田荘の土豪:笹倉氏の事・東播磨八郡の領主:赤松(在田)氏には、特別な関心事もあって気になっていた。幾度となく加西IC前の24号線は走っていながら、民家敷地内と裏山で、且つ薮の中で遺構の確認も侭ならない様子と聞いていた。・・・が以前より何かと情報をいただくM氏より、個人住宅の建設か?一帯は開発の計画があるようで、事前調査の為か!!笹倉城内の竹薮等が伐採されている旨のメールと状況画像を受けて、早速・殿原城(後の笹倉城)を訪城した。
    殿原城(笹倉城)南西帯曲輪から主曲輪・主郭櫓台
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赤松(円心)則村の嫡男:赤松美作権守範資(のりすけ)と其の子赤松(在田)肥前守左衛門尉朝範が尊氏に付き、「観応の攪乱(観応2年 1351)」光明寺合戦に直義軍との戦い、武功が有って東播八郡を領して、西播磨(たつの市)から東播磨の在田庄(加西市殿原町付近)に居城を移し殿原城を築いて有田(在田)氏を名乗ります。
     帯曲輪南東からの土塁・空堀と「本丸」屋敷
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戦乱の東播磨・北播磨は覇権をめぐり、急速に勢力を拡大してきた別所氏の脅威か、但馬山名氏との攻防に敗れてか?殿原城の在田氏は二代で終えますが、赤松一族・別所(赤松)弥四郎祐利 が旧殿原城を修復して笹倉城と改め、自ら笹倉姓を名乗り5代則賢の時、三木合戦が始まり・篭城自刃、子は近江長浜に隠棲したが再興の機会なく没し、その子が帰農して旧地に戻り長濱姓を名乗り笹倉城跡の一角に家をたて先祖の霊を祀った。其の長濱家古庭園が市指定文化財で、内藤家庭園とともに同じ様式の池泉観賞式庭園で、藩政時代の庄屋家の庭園として当時の面影を遺す貴重な庭とされます。気になっていた家紋”九枚笹”は長濱家(旧姓:ササクラ)では無く、内藤家の墓所に見かけた!!。
    東切岸上の土塁から空堀・横堀を経て主郭・副郭(帯曲輪)へと渦郭式縄張りを見る
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雑木薮・竹薮の中では・伐採されていなければ到底目視で確認は出来ないと思える竪土塁虎口・空堀・横堀・細い通路状から主曲輪に入る枡形形状?の虎口・・・等、中世後期の縄張り構造が、最後の城遺構を閉じ込めたまま、いま蘇らせています。比高わずかに10~15m程・100㎡程の小規模な方形居城ですが、東側から空堀・横堀をおって西側へと、主曲輪に入るのに二重・三重に回り込む・渦郭式縄張り‥、織豊系では無いが土塁囲みの中・一折れして主曲輪に入る枡形状虎口?も見逃せない・・・。

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