闘竜灘 加東市

灼熱の太陽の下・甲羅乾しの亀の甲羅さえ溶けだしてしまいそうな程の暑さには閉口ですね・・
川底一面に敷き詰められたような岩盤帯は、荒々しく起伏する奇岩・怪石に阻まれて落差約3mの岩間を激流が白い帯となって流れています。此の地を訪れた幕末の詩人:梁川星巌は岩を裂き・躍動する水流と岩場の様相から闘竜灘と名付けました。
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奥丹波(丹波市)と但馬:朝来市境界の粟鹿山や京都府福知山市との府県境:烏帽子山を源流とする旧佐治川から多くの支流・枝流を集め、篠山川と合流して東播磨の西脇・加東・小野・三木・加古川各市を抜けて高砂市で播磨灘に流れ出る加古川は、明治32年の阪鶴線(福知山線)開通や加古川方面への馬車・やがて大正2年には播州鉄道(加古川線)が開通して長い歴史を終えたが、加古川は高瀬舟や筏による物資輸送の舟運で栄えていました。
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しかし此の闘龍灘の岩床と落差3m程の滝に阻まれた難所は、高瀬舟も筏も流せず此処が物資の中継基地となり一旦 ・舟荷を解いて荷物の積み替えが行われていた。幕藩の旧体制は明治新政府により舟座は廃止され、過渡期の混沌とした時代だけに請求は認められなかったが、明治新政府により加古川最大の難所・闘竜灘の開削許可が降りたのが明治5年。
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翌:明治6年(1873)但馬:生野銀山のフランス人技師セームの指導により、ダイナマイトを使用した掘割水路(長さ180m・幅8m・深さ4m)の開削が完成し、舟運も栄えたのですが!!。輸送手段は舟運から馬車から鉄道へ・・・引継がれて廃れた・・・
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いま闘竜灘は全国で最も早い鮎の解禁場で知られ筧(かけひ)どり漁法【汲鮎漁】でも知られ鮎の習性をを利用して、遡上する鮎を筧の人口滝に誘う漁法の装置が見られます。より以前は掘削された掘割水路を利用して小網で掬い摂る”鮎汲み漁”の名所ともなっていたと云う。  
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闘竜灘には加古川舟運の創始者阿江与助の銅像が立ち、河東碧悟桐<現:松山市千舟町の生まれで正岡子規の高弟(1873‐1937)で、高浜虚子とは尋常中学校の同級・子規門下の双璧と謳われた>が大正5年(1916)闘竜灘を訪れた時に播州寝覚と題して詠んだ「跳びあへず渦巻く鮎の ひねもすなる哉」の句碑が立つ。
   いたるところ甌穴がみられる
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広い河床全体の露岩が盛り上がった様な河原の岩場は、焼けた鉄板の上を歩いているような快感が味わえますが?足下には随所にポットホール(甌穴=水流によって侵食された円形の穴)を見る。

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