後青寺城 Ⅰ

以前のブログにより紹介した大内城には平家政権下で大成した源氏の武将:源賴政が居た様に?、鎌倉幕府の政権下において、平頼盛が此の地:六人部荘を領して大内城に拠っていました。
   大内城東端北部:折れを伴う高土塁と曲輪切岸
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平治の乱の際に敗れ捕らわれの身となった少年期の源頼朝平頼盛の母親【平忠盛の正妻・池禅尼平清盛の継母にあたる】が清盛に命乞いして救ったことから、元暦2年(1185)屋島・壇ノ浦の戦いに平氏が滅亡し、追討で平家の関係者が抹殺されていくなか、建久3年(1192)源頼朝が征夷代将軍となって鎌倉幕府が成立した後も、賴盛だけは許され、地位や領有地は安堵されたと云われます。
   後正寺古墓?(後正寺城館Ⅰ!?):西切岸と溝谷
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丹波市から福知山市六人部(むとべ)のR9号線に出る手前に大内城が在る。保元の乱(1156)・平治の乱 (1159)に隆盛した平家は、平清盛が治承の乱(1179)の後白河法皇を幽閉し、神戸福原に遷都した平家一門が権力を握っていた全盛期:山陰方面からは京の都に境する丹波地域は、その守備するにも重要な位置に在って、六人部荘は平清盛の異母兄弟平頼盛の荘園でした。
  後正寺城館内:段曲輪と折れて延びる土塁線
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其の後の中世城館の城史は不明ですが、旧天田郡六人部一帯を支配していた豪族に堀氏がおり、大内から興ったもので先祖を堀左京亮貞政と云い!!??、室町時代中期頃:文安年間(1444-497)守護:細川勝元や政元の奉行;として堀孫次郎が仕えており、大内城から南への丘陵続き<低丘陵上を舞鶴若狭自動車道が走る>に二ヶ所の曲輪部は、孫次郎が拠ったと推察されます。大内城も折れを伴う高い切岸と大土塁・空堀を廻らし、中世(南北朝期)以降の在地領主により改修・使用されている様!?。
    段曲輪:上部の藪の先を山内城からの山道が通じる
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大内城の東:自動車道下部の丘陵続きは東西にガードレールが残る廃道と谷で一端途切れるが、此の東面に福知山市遺跡分布図に後正寺古墓とされる平坦地形が残るが、字名が後青寺(現:後正寺区)なので廃寺跡?とも古墓跡ともされている。・・が数段の曲輪・その曲輪は一部折れながら高さ1m程の低土塁。棚田が拡がる集落側西面は深い溝谷が城域を区分している様で中世墓跡とも思えない。城館跡の可能性が高いものと推定されているようです。此の続きが後青寺城館で(比高20m程)丘陵部は広く、数段の平坦地南下には傍らに五輪塔を祀る薬師堂が建つ。寺跡なら此処か?。堀株の先祖碑が丘陵部北端に有るが・大土塁虎口地形が背後にある。主郭部が続くと思える丘陵上は此処で突然途絶えて自動車専用道路となる。

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