譲葉山西城

織田信長による「天下布武」命に、丹波攻略の総指揮者:明智光秀は波多野氏傘下の諸城を一つ一つ落としながら本拠の八上城を包囲し、赤井・荻野氏の丹波黒井城に迫ります。多紀郡(篠山市)の八上城・氷上郡(丹波市)黒井城攻めの明智勢力は、其の両城を分断し街道と両城の監視の為に、郡境の鐘ヶ坂に金山城を築き本陣としていました。
   譲葉山西城<仮称>曲輪Ⅱ東の堀切
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八上城を包囲した明智勢は黒井城攻略の為:金山城から柏原八幡山城に本陣を移します。その八幡山城の麓は八幡神社の門前町として・市が立ち賑わった所。織田神社・木の根橋から柏原藩織田家陣屋を経て、後期織田家廟所前を抜け、大安寺跡(八幡宮の神宮寺)を経て譲葉山に至る登山ルートを辿ります。
  譲葉山西城<仮称>曲輪Ⅱと曲輪Ⅰ(主郭)間の空堀と主郭切岸
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譲葉山山頂部の二箇所に明智方の陣城と思われる遺構があり、先のブログに譲葉山城Ⅰ(東郭)・譲葉山城Ⅱ(西郭)を紹介していますが、この谷沿いを譲葉山に至るコースは大内山(柏原藩陣屋・崇広小学校背山)からの尾根コースが合流して、暫く尾根を辿り、展望台(旧電々の電波反射板施設が有った所)に着きます。此処から山道は尾根筋を捲いて水平道を進みますが、尾根筋を詰め上がると標高Ca463m付近尾根先に、1.8~2m程の切岸と浅い堀切をもつ二段の曲輪と3‐4段の小曲輪を遺す城砦遺構がある。
   主郭へは土橋付空堀・・!!?
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譲葉山西城(仮称)は電波反射板跡からの登山道を少し上り・西からの尾根に乗り合流する所。譲葉山山頂を目前にして・登山コースとは逆方向の西の外れ峰にある城砦遺構で、地元で「しろ山<城山>」と呼ばれているところ!!。普通・領主の居た山城に対して呼ばれるが、陣城に対して呼ばれることは余り無い筈?。麓にある村の城奥村城<此処も字城山だが>と関連は無さそう!!?。里山の奥村城さえ築城時期・城主等が不明の城。此の譲葉山西城が旧城を向城に改修されたとは思えない。尾根筋に赤・黄の境界識別プレートや、ピンクの営林作業用テープ類だけが残るが、登山者の目に触れ・記録にさえ残されていない埋もれた城砦が此処にありました。
主郭へは土橋付空堀・・!!?(主郭上部から)
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光秀方の譲葉権現山城(東郭・西郭)に附属する極小規模の出城的存在で、狭い二段曲輪に二本の空堀が有るが、主郭南斜面の防禦を竪堀ではなく竪土塁を使用している事で明智軍の改修が考えられます。縄張り遺構状態からは天正3‐6年頃迄の丹波攻略に落城し、明智方に降りた京都・兵庫丹波の将兵による築城と思えます。それだけに山麓に柏原八幡山城・山頂の譲葉山と両陣城に挟まれて動向を監視される位置に在る!!。
   主郭南面へ空堀を回り込むと竪土塁が・・・・
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丹波市内には穴裏峠城<仮称>に附随すると思える瑞雲寺城砦群<仮称>西倉城<仮称>鴨内城(仮称)等々の城郭が、いつの日にか中世史や城郭研究家・県や市教育委員会等による歴史・研究調査により、遺跡として陽の目を見ることになれば・・また古文書等により:此れ等の築城目的や時代・城主等の城史が解明される事を期待したい。

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