口銀谷散策:Ⅰ

朝来市生野町・おかきの播磨屋本店を後にして生野町口銀谷(かなや)へ向かう国道は峠道にかかる。左へカーブしてゆく右手コーナ-の小公園の生野義挙の大きな石碑を見るが、一帯は整備された様で?、どこかへ移されたのか見なかった(気付か無かっただけか?)。大和五条の代官所を天誅組が襲撃した幕末期最初の倒幕の狼煙は、諸藩の兵力に押さえ込まれたが、勤皇の志士達の倒幕意識を奮い起たせ、維新の先魁となり全国に拡がった。
  明治初期の官舎<三菱の紋瓦があがる>と背後の生野古城
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生野でも文久3年(1863)勤皇の志士と但馬の農民が生野代官所を占拠して陣した生野義挙(生野の変)  三日で鎮圧され破陣していますが、播磨屋本店の現:社長は其の志士達の尊皇を更に・神として進化?させる思想の持ち主なのかも・・・!!?。此の峠を下り始めると過ぎ青垣町(丹波市)への標識をみる分岐点。国道を直進しても直ぐJR生野駅。
   生野義挙の碑(生野代官所跡)
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生野町は平安時代初期の大同2年(807)に銀の発見により開抗され、時の権力者の直轄支配下に置かれ、「佐渡の金・生野の銀」と云われ、古くより国内屈指の銀山として、また但馬街道の要衝に在り・鉱山への玄関となる生野町の口銀谷地区も鉱山管理中枢の地として発展してきました。
  生野クラブ:明治21年有栖川親王が宿泊された。三菱の保養施設・迎賓館
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明治維新後:フランス技師による当時の最新技術を導入し、我が国近代化のモデル鉱山として開発が進められ、皇室領から明治29年(1896)には:民間とはいえ大財閥の三菱に払い下げられ、以後:昭和48年(1973)閉山となり鉱山の歴史を閉じるまでの歴史に培われた、鉱山町の町並み(兵庫県景観形成条例の景観形成地区に指定<平成10年>)と歴史遺産・近代化産業遺産が町内には数多く遺されています。
   此処も生野代官所(生野平城跡)のモニュメント
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何時も:其のスタート地点とするのが「生野まちづくり工房井筒屋」<郷宿井筒屋(旧吉川邸)>前の観光駐車場ですが、今回は其れほども離れていないが、生野代官所跡(生野義挙跡)の碑が立つ観光大駐車場から・・・・。先に生野鉱山職員宿舎(甲社宅)と此の一画に在って、ここに生まれ育ち幼少期を過ごした名優:志村喬(「七人の侍」では主役?三船敏郎を押さえて、一際縁起が光っていた様に思う!!)の志村喬記念館を目指す。
 旧生野鉱山職員宿舎群(手前:等身大の志村喬が立つ記念館)
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志村喬記念館は生野古城【山城で、生野代官所や加治屋町通りの北角?<赤煉瓦と踊り子?塑像のモニュメントがある>が生野平城の跡】を直ぐ背後にした山麓の寺の下に在った。旧生野鉱山職員宿舎とはいっても甲社宅・・・と呼ばれるところから・トップランク(甲・乙・丙・丁・・・)の官舎だったのでしょう。2010年にオープンしたばかりのミュージアム。現存する日本人官吏の為の和建築4棟が並ぶ。手前:縁外(廊下)に等身大の志村氏が立つ大正期の棟が記念館。隣に明治初期(明治9年<1876>日本で最初の社宅ではないかと推定されています)。昭和初期・明治後期の棟が建つが、最奥の明治期のものは三菱紋の棟瓦が揚がる。志村喬旧居は建物群のうち記念館の北向いの広い空地の一画で、松ノ木一本だけが所在を示しています。
   生野鉱山職員宿舎(甲住宅)と志村喬記念館

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