口銀谷散策:Ⅱ

鉱山町・生野町の町並み散策の拠点は、生野まちづくり工房「井筒屋<旧郷宿の旧吉川邸・1832年築で国の登録有形文化財>と、郷社の姫宮神社へに通じる町内の通りを挟んで旧浅田邸(浅田家は播但鉄道・生野銀行の開設等、生野町発展に尽力された)<隣接する二つの>口銀谷(銀山町)ミュージアムセンターからスタートします。
  生野まちづくり工房「井筒屋」
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生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられ中世:天文11年(1542)但馬国守護:山名祐豊により石見銀山から採掘・精錬技術を導入して開発され・本格的に採鉱されるが、明徳の乱後・権威を失墜していく山名氏に変わって守護代:太田垣氏(竹田城主)が鉱山領有権を奪う・・・が織田信長軍の但馬攻めに敗れ、信長の支配下に、信長の死後は豊臣秀吉が、江戸時代:徳川家康へと、時の権力者の直轄領として佐渡金山、石見銀山とともに重要な財源となっていた。
  楠邸(地役人邸の様式をもつ町屋)
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幕府の直轄領(天領)として形成されてきた銀山の町も銀産出が衰退し、江戸中期には銀に替わり銅や錫の産出が増えてくる。明治元年(1868)日本初の政府直轄となると、フランス人技師らの助力を得て先進技術を導入し近代化が進められ、銀山町の生野町口銀谷地区に見る様な、生活文化を伝える歴史的建造物・鉱物運搬道として”銀の馬車道”が姫路網干まで、姫宮橋の上からは美しい市川の清流沿いには復元された鉱物運搬のトロッコ軌道と石積みアーチが観られる。
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明治22年(1889)宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896)三菱合資会社に先に見てきた「志村喬記念館等の甲社宅」始め、鉱山職員宿舎・施設等も含めて払下げられた。国内有数の鉱山も昭和48年(1973)資源減少・鉱石の品質低下・採掘コストの増加等により閉鉱され1200年の歴史を閉じます。
 ”井筒屋”母屋の囲炉裏や此方の離れ?部屋も、茶菓付き珈琲ルームになる
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口銀谷地区に鉱山町の繁栄を語る生野瓦の独自な景観、鉱物精錬の際に出る不要物の”カラミ石”も側溝や塗壁内・井戸廻りの敷石に利用する等、リサイクルの先魁と云われ、ボランティア・ガイドさん等が力説する一端です。平成10年(1998)兵庫県景観形成条例の景観形成地区に指定され、町並み環境整備事業が進めら近代化産業遺産などが整備保存されており、戻ってきた「生野まちづくり工房「井筒屋」内の古民具・調度品に囲まれての休憩。以前は母屋の囲炉裏端・今回は離れ?側の大テーブル側で・・・、
  通りに面して漆喰壁に描かれた鏝絵を見かけた・・・
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いつもの帰路はR429号を市川沿いに鉱山口・銀山湖・魚ヶ滝荘から黒川を経て丹波市へ向かうが、生野峠からは車道に落ち葉が積もる林道より狭く・急斜面で暗い坂道が続く。播磨・神崎郡側のプロジェクトも頑張ってきた銀の馬車道沿いR312号から神埼町で多可郡へ越える県道8号をつかう。・・・・
   口銀谷のミュージアム、市川に出ると石積みアーチとトロッコ軌道が遺る↓


  

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