石龕寺もみじまつり 丹波市

丹波もみじ三山の一:石龕寺<丹波市山南町岩屋>は:室町幕府をひらいた足利高氏・義詮父子ゆかりの寺としても、少しは知られてきた?様です。
   石龕寺山門(仁王門)から…
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毎年11月第3日曜日【今年(1912年)11月18日】”石龕寺もみじまつり”が行われ、県道77号(延喜式山陰道は篠山市から鐘ヶ坂を柏原・氷上へ抜ける山陰道は当初<延喜式>は篠山市味間から山南町阿草に出て篠山川<川代渓谷沿い>に此処:山南町井原<旧佐治川・篠山川が合流して加古川となる地点>の日吉神社<石龕寺への入口>より、延々:約3km程の工程を徒歩で武者行列が出発する。
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先導は石龕寺檀徒による山伏と石龕寺住職により、石龕寺再奥の毘沙門天まで高氏父子を案内、続く武者等は都を逃れた高氏が頼った久下城(玉巻城)久下氏一族。元弘年間(1331-34)六波羅の北条氏との戦いに敗れ京都を追われた足利高(尊)氏が手勢僅か数10騎で丹波路を逃れてきた。一族を率いて高氏を待つ久下氏により石龕寺に逃れ、後:六波羅を攻めるため丹波篠村八幡宮に挙兵した際にも「一番」旗を靡かせ馳せ参じた話はよく知られるところです。
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観応2年(1351)にも尊氏が京都を追われて再び丹波へ、この時も久下氏を頼って石龕寺に逃れますが、足利尊氏が追手から隠れて九死に一生を得た二重川”伝説も足利橋の名とともに小川地区:日吉神社近くにのこります。
  山門(仁王門)で下馬して毘沙門堂に向かう高氏父子一行
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高氏は九州へ堕ちるが、翻って高氏に加勢する大軍で京に攻め上ります。其れまで石龕寺に、後:丹波守護となる仁木氏や久下氏・石龕寺の僧兵らと留まっていた子の義詮については、丹波のお話:手々打ち栗(爪あと栗)の伝説等…がのこされています。   
  山門からの参道はもみじのトンネル(石垣のもみじ葉グラデーションが美しい)
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石龕寺最奥の毘沙門堂まで、敗走の将:高氏に従う久下氏等武士団を先導した山伏らは般若心経等を唱えた後、奥の院への参道を少し登った毘沙門堂を直ぐ下に見る広場の、結界縄の外で伝統の問答の後・許され結界内で、伝統の護摩法要を行ない、参拝者の無病息災・健康祈願等を行う火渡りが行われます。
  毘沙門堂に着いてホッ・・お疲れ様でした・・・・
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丹波の古刹:石龕寺(真言宗)のもみじは本堂(毘沙門堂)上から俯瞰して眺められ、ことのほか絶景で「ひょうご風景百選」にも指定されています。
   毘沙門堂上の護摩檀へむかう山伏…・
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用明天皇の587年(丁未年):聖徳太子の兜の毘沙門天像が何処かへ飛び去り、その像を探し求めて山南町へ入ったのでしょうか?。ササバ(祭祀場で点名:机峠480m)からは石戸山が光り輝いているので、此処で毘沙門像を見つけることが出来たといい頭光嶽の名も岩屋山尾根続きの近場に在ります。
 東・西・南・北・中央の邪気:妖気を浄化する弓神事
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聖徳太子:自刻の毘沙門天を祀られたのが石龕寺毘沙門堂創始と伝えられ、「太平記」に足利尊氏・嫡子の義詮が此処に籠ったことが記されています。また明智丹波攻めの兵火に唯一残った茅葺(現在は瓦葺で再建)の山門に立つ鎌倉時代:仁治3年(1242)定慶の作による金剛力士立像は国の指定重要文化財。
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過去の”石龕寺もみじまつり”ブログ ↓ 
石龕寺もみじまつり Ⅳ(2011年)  http://40437108.at.webry.info/201111/article_13.html
石龕寺もみじまつり Ⅲ(2010年)  http://40437108.at.webry.info/201012/article_5.html
石龕寺もみじまつり Ⅱ(2009年)  http://40437108.at.webry.info/200911/article_10.html
石龕寺もみじまつり Ⅰ(2007年)  http://40437108.at.webry.info/200711/article_18.html

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