木ノ内城 朝来

過日:松茸山の為入山出来ず登城を残念せざるを得なかった物部城と木ノ内城の二城が、物部神社から北に向かう作業林道・宮谷川を挟んで呼応しているのでリトライしてきた・・・・が天候には恵まれず、此の二城をナントカ制覇しただけで、意欲削がれてもう一城・物部城最後の城主:物部治政が、主君:竹田城主の太田垣朝延を護って、山内城の足羽是高らと籠った岩洲城を今回もまた残念した・・・。
  木ノ内城:主郭部東端の堀切
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物部城は鎌倉時代:弘長年3年(1263)物部庄地頭として来住し、地名を姓とし物部氏を名乗り子孫が代々居城したとされる。物部氏は源頼政(鵺退治伝説で知られる)の三男:賴兼の子孫で、初代は賴久と伝えられる。太田垣氏の重臣として4代目:惟政は太田垣土佐守の女<むすめ>を妻としている。前に訪城した砦規模の二ヶ所の小さな、藪に埋もれれば遺構も確認出来ない城址?が戦国の天正期まで維持されてきた名門:頼政系・物部氏の城とも思えない?。
 木ノ内城:主郭部北端の堀切:背後は播但連絡道路に落ち込む!!
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朝来市物部には物部神社から宮谷川沿いに西北丘陵奥へむかう作業林道。前方の播但連絡高架道路の右手:トンネル南出口の北丘陵上に3-4段尾根上に曲輪を並べただけの極小規模の物部城が在ったが…谷を挟んだ左手・播但連絡高架道路により尾根続きの北面は削り採られ空中に消亡しているが、丘陵部南面には尾根三方を堀切で断つ木ノ内城が在りました。各曲輪の切岸は曖昧ながら主郭部三方の堀切遺構からは、古城の旧物部城から新物部城として木ノ内城に本城が移されたものと考えます。
 L字状主郭内コーナーの仮主曲輪!?に散存の石材は経塚の葺石か?・空堀状は盗掘跡か?
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城域北端部の堀切から尾根続きが播但連絡高架道路で消滅してしまっているが、最高所に主郭が在ったと思えるが、現状では尾根幅8-10m程、L字状の要に位置するマウンドを仮主郭と思うことにする!!。マウンドは石材が散乱しているが、経塚の葺石だったのかも?。一文字空堀にしては短過ぎるマウンド沿いの溝は盗掘跡か?。
 東尾根末端曲輪:土塁虎口に見えるが石材が抜かれた円墳跡か?
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便宜上の仮主郭から南に一段曲輪があり下方に堀切・北へは約20-25m程で堀切・登り返す5m程で藪と其の先は播但連絡高架道路。マウンド・コーナー部から東へは約60m程の緩斜な尾根先を堀切、堀切底を右下へは東末端の曲輪群に接続。末端曲輪にΩ状土塁囲みの虎口状を観るが石材が持ち去られた中規模円墳なのかも・・・?。

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