東鴨野城 Ⅱ

南北朝期:加古川沿いの氷上回廊に面した西麓の佐野を大手とした高見城は「太平記」に佐野城とも呼ばれ、[観応の攪乱]後の直冬(高氏の庶子)が高氏がを討つため呼びかけ参軍する但馬・山名時氏が京に攻め上る為・高見城下を通過する際、丹波守護:仁木賴章は一矢も酬い見過ごした。仁木氏は既に南朝方へ傾倒していたのか?、仁木氏は二代で衰退・山名氏が丹波守護となると玉巻城(山南町)の久下時重を守護代として高見城の置くが、やがて…応仁の乱後は新勢力:赤井氏(氷上町)の城として北麓の鴨野・大新屋を大手として改修されていったのでしょう。
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加古川沿いR175号が高見山城から北へ延びる低丘陵西麓を走る。丘陵部先端に母坪城が在り、途中:萱刈坂<峠>が丘陵低部を割って東側の鴨野・新井・大新屋を抜けて柏原町へ向かう。萱刈坂の北丘陵続きに鴨野城始め高見城砦群があるが、高見城から北東へ延びる丘陵尾根筋(悠々の森を繋ぐ一般登山道がある)にも城砦遺構は遺ります。
 空堀西端にある櫓台と小曲輪に挟まれた木(城)戸門跡か?
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高見城に至る北東末端部から”あかのキ山175m”とCa180mの二つの瘤…禅座坂…展望は無くなったが東屋休憩所のある260m峰までの尾根筋は先の東鴨野城:Ⅰで紹介しましたが、遺構かどうか不明確な極小規模な曲輪跡?の平坦地形があるだけなのに比して、山麓に残る遺構の残存状況と縄張りの異様さが目を惹く。新井小学校の裏手にある東鴨野城の遺構は城?なのか…城館なのか?。
   東の縦土塁と竪堀
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城館・居館なら居住空間やその他施設の曲輪を空堀や土塁囲みで防備されるのが不通?だが、此処は曲輪前面の岸を切落とした3-8m程の段差と一部空堀状で曲輪域を区分しているだけ。日本一低い谷中分水界の地だけに此の辺り・平地に館が構えられなかったとは考えられますが・・?。(鴨野の土塀/加茂神社と金兵衛の狛犬の項<中程>を参照ください)
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ところが此れ等:広大な曲輪群を取り囲む様に切岸上方(高低差約8m)を土塁空堀が囲い廻る。東端は縦土塁と竪堀(曲輪上部への堀底道ともなっている)、長く延びる土塁空掘の中央部は取分けてぶ厚い大土塁で、大土塁の外側は5m程の切岸下に当城の司令塔的曲輪(寧ろ主郭かも!!).。足下に:北から東へ続く広い曲輪(家臣団屋敷!?)の中央に位置している。
 内側?横堀と大土塁:外切岸下に司令塔の様?な<主郭>曲輪が在る
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空堀(横堀)の西端は新井小学校裏手の伐採された雑木林か畑地?の緩斜面上に下るが、内側土塁が土橋状に延びる先端が櫓台になっており、虎口となる堀底道を左右から監視する施設か?。外側(山側)の小曲輪は木戸番小屋跡?か。急な切岸を立てる櫓台の東端が縦土塁となり、其の下部から溝状の堀切が城域を分けている様?。此の城域西端からの山道が”あかのキ山175m”山頂に繋がります。

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