山口護国神社

前回未訪城となった物部城・木ノ内城から立脇城に寄った後、旧国道(県道70号線)から円山川沿いに竹田城を望みながら南下するR312号線「立野交差点」に出て、次ぎが播但連絡道路朝来ICからのR429号と合流する「朝来インター東」交差点。岩洲城(山口城)への第一ポイントとなる山口護国神社に向かう。
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立野交差点から山口公民館前を抜ける地区道が岩洲城登城口の妙見宮参道入口の第二ポイントを通過するが、R312号「羽渕交差点」先で「護国神社」案内標識に従って左折し此の地区道(区間バス道)に入る方が無難です。護国神社から地区道を約150m程北進した丘陵側に「妙見宮」の参道石標が立ち、崖沿い急斜面に山道が延びる。
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岩洲城こそ天正5年(1577)中国・毛利攻めのため播磨に入っていた羽柴秀吉が、播磨平定を進める一方:弟秀長を但馬に侵攻させた第一次但馬攻めに物部城主物部治政・山内城主足羽是高が、太田垣氏の竹田城主攻め前哨戦(とはいえその日の内に敗れたが!!)播磨但馬国境近くの此の城に籠って攻め上ってくる播磨:赤松広秀勢を迎え討つた岩洲城合戦主戦場です。
天正の乱に但馬太田垣氏が敗走した此の地の中腹に在る妙見堂は286年後の江戸時代末期:再び敗戦の歴史舞台となります。
  西園寺公望(新政府により山陰道鎮撫総督・北陸道鎮撫総督に任命された)揮毫の墓碑
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天誅組が大和五條代官所を占拠した「大和義挙」に呼応して生野町口銀谷の生野代官所を尊皇攘夷派が占拠し挙兵した生野の変(文久3年 1863)は但馬地方では平野國臣(平野二郎)・南八郎(河上弥市)・多田弥太郎等による生野義挙の史跡【R9号:若宮神社にも中嶋・黒田の顕彰碑】として残されています。挙兵も僅か3日で破陣し岩洲山(妙見山)の妙見堂に南八郎(元長州藩士:河上弥一<市:21歳>)等13名が立て篭ったが、挙兵は失敗に終わり、麓に下り現:護国神社の”山伏岩”に「今月今日討死」と血書して自刃し・また付近で討死。後に京都より送られて来た同志4人を加えた17名の志士の碑も建てられている”生野義挙史跡”が山口護国神社。
 妙見堂(背後の尾根続きには岩を切り崩して穿かれた二条の空堀有り岩洲城の出曲輪!!?)
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境内には「十七士之神霊・正義十三士自盡之址・生野義挙志士殉難之地等の顕彰碑や供養墓碑がある。鳥居正面上の祠中央に慶應4年(1868)「殉節忠士之墓」正三位中将藤原公望の揮毫は【明治新政府から幕末方地方の動乱鎮静・各藩の新政府に対する意思確認のため、山陰道鎮撫総督・北陸道鎮撫総督に任命された西園寺公望<丹波では篠山市福住宿・丹波市柏原の西楽寺を本陣としている】書による墓碑が立つが、此れより第二ポイントの妙見宮参道入口へと丘陵麓沿いの地区道沿を進み岩洲城に向かう。

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