岩洲城 朝来市

天誅組みの大和義挙に呼応し、但馬でも一足早い”勤皇の志士達”が挙兵し、幕府領となっていた旧朝来郡官吏の代官による年貢等取立てに苦しむ民衆の為に立ち上がり、生野代官所を農民達と襲った”生野の変”ですが、既に天誅組は敗れており、挙兵を断行した生野の志士達は、僅か3日で破陣し「妙見堂」に籠るが大挙して攻め来る幕府軍に民衆は、反対に志士達を襲い囲む。麓に降り自刃したり、討死した若き志士達の無念を閉じ、殉節忠士として祀られる山口護国神社から、妙見堂に向かう。
妙見堂背後:尾根続きの空堀(堀切と竪堀<中央右手>)
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取付き点から急な九十九折れの参道を辿り、妙見堂から更に続く幅狭い急な上り尾根の山頂(4等三角点469m)に主郭を置く岩洲城が本体の目的地。
此の岩洲城こそ、天正5年(1577)中国・毛利攻めのため播磨に入っていた羽柴秀吉が播磨平定を進める一方:弟秀長を但馬に侵攻させた(第一次但馬攻め)の際、秀吉の播磨入に播磨守護:赤松広秀は秀吉に降り、秀長の第一次但馬攻めに参軍しています。
  岩洲城(広い3段曲輪:南端土塁曲輪から主曲輪を望む)
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物部城主物部治政山内城主足羽是高が、主君の竹田城主太田垣(土佐守)朝延を護って籠ったのが此の岩洲城(山口城)ですが、築城時期や城主等城史は不明です。
   岩洲城(三方土塁囲みの南端曲輪)
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但馬守護:山名氏・守護代:太田垣氏の時により播磨国境に近い前線基地として築かれていた太田垣氏の諸城砦群は、攻め上ってくる播磨:赤松広秀勢を迎え討つが、竹田城からの援軍・笠垣次郎武祐は戦死、物部氏・足羽氏等も岩洲城の大将:太田垣出雲守(朝延の子:輝延か?)を護り敗走します。僅か一日で落城し翌日には竹田城に迫り鉄砲による砲撃に竹田城も落城する但馬太田垣氏終焉の地。
   岩洲城主郭(切岸の無い?平坦台地に4等三角点が埋まる主曲輪)
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物部氏・足羽氏将兵が如何に小人数でも妙見堂では手狭過ぎる。曲輪高低差こそ小さいが広い数段の曲輪・うち一曲輪は幅広い土塁土塁囲み。物部氏・足羽氏らが此処を陣として籠り、妙見堂出曲輪への出撃や、主郭から東北へ尾根を降って山口・立野・多々良木方面への退去路を確保し?、敗走する主君を将兵等が楯となって護ったものか?。

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