金水寺城<仮称>

丹波市山南町側から奥野々峠(県道86号)を越えてR176(旧山陰道)に合流する下小倉地区に下ってくる。武蔵7党に属した豪族・久下氏は源頼朝の挙兵に”一番”に駆けつけた事で名を挙げ、承久3年(1221)丹波栗作郷(丹波市山南町上久下・久下地区)の地頭として来住し、足利尊氏:篠村八幡宮の旗揚げの際にも「一番」を旗印に一番に駆けつけたことは良く知られます。
  主郭尾根筋の土橋付き堀切は8m程で折れて竪堀で落ちる
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京に近いとはいえ山奥の田舎町に逸早く・其の情報が届いた事は、久下氏とは同族以上に深い関係にあったと思える大山城の中沢氏(長沢氏)が足利尊氏側近として京都の居た事が推定できます。ともに織田信長「丹波攻め」に落城しますが、史実に疑わしいとはいえ・氷上郡(丹波市)の久下氏が八上城:波多野氏重臣の七頭に名を連ねています。
  金水寺城尾根続き:左右に竪掘状が一条落ちる(東斜面の竪掘)が自然地形の思い込みだけかも?
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観応年間(1350-52):丹波守護代ともなった久下氏の領有地も、丹波国人領主:赤井氏の台頭に・其の幕下となり、柏原・氷上の地が波多野氏(篠山:八上城)の手中にあった天正3年・明智光秀は柏原八幡城の本陣に入り、西面から明智軍が黒井城へ、東方からは篠山から栗柄峠、福知山・竹田方面からは波多野氏軍が黒井城へと攻込むが、黒井籠城兵が打って出るのを契機として、突然寝返った波多野軍により柏原八幡の本陣へ戻れず鼓峠を越えて逃れた光秀。
  金水寺城尾根続き:左右に竪掘状が一条落ちる(西斜面の竪掘は中腹の祠側近くまで落ちる)…が此れも自然地形の思い込みか?
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「赤井の呼込み軍法」の大敗。其の後も4~7年の黒井城落城まで、南北朝期から室町時代末期まで、中世戦国の時代に築かれた城砦の多くが、築城目的・時代・城主等に歴史一切不明のまま眠っています。久下氏の玉巻城から奥野々道(県道86号)を抜け大部谷城の山裾を通って、山陰道(R176号)に合流する下小倉には円成寺城が在って、要所の重要な守備と監視所であった事は推定出来ます。
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此の二つの城とは街道筋を挟んだ向いの丘陵部・東山麓を柏原川が自然の濠となって流れ、川沿いにJR福知山線が走る。此処に城砦が在る事は氷上郡埋蔵文化財遺跡調査報告以後にも報告は無さそうですが、円成寺城・大部谷城との三城が旧山陰道のR176、奥野々を越えてくる県道86号、丘陵部は山道で途切れるが篠山川沿いの県道77号篠場から通じていた篠場峠越えの県道292号の間道を監視・呼応できる位置・三つの街道通行の要衝、領内監視にしても眺望のよい低丘陵域の東南部・枝尾根末端ピークに小さな城砦遺構が在った。
  金水寺城:帯曲輪が二重・三重に捲く東斜面・最上部は主曲輪
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ブログで紹介した今石古墳の西南丘陵上にあるが無名の金水寺城<仮称>は柏原川に架かる金水橋を渡った先に金水廃寺跡が在った事から命名した。

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