門村構居Ⅱ 多可町加美区

中世末期に突然?:杉原氏により築城された居館と詰め城(門村構居・笛草城)や、位置さえ不明だが地元には案内標識さえ立っていた稲草城が在る?。何故要衝でもない此の地域の中央部に立地するのか?。軍功等により領地をを賜った…経緯もなさそうですが?。西脇市方面から多可郡に入り杉原谷を播州峠に向かうR427号線は丹波市青垣町に抜け、遠阪川沿いの旧山陰道・但馬街道を但馬:朝来市に越え和田山町…に至る。青垣町を南下すればR176号を篠山・亀岡へと京街道に繋がる。
  中央大土塁の櫓台から左右の空堀
画像
何よりも播州峠を越えた青垣町側からは林道の様なR429号が市川源流の黒川や銀山湖から生野へ通じている。朝来市黒川の大明寺は山名時熙【(やまな ときひろ)・山名持豊<宗全>の父】を開基の寺。黒川から青倉山を越えれば伊由谷川沿いに円山川(R312号)に出て竹田城は目前。生野は良質の銀鉱山・生野口銀谷からはR312号を市川沿いの生野・但馬街道。対赤松攻め・播磨への最前線陣地となるが、
  平行に走る大土塁と空堀は街道に正対した塹壕と思える
画像
但馬側から播磨への進軍や通行に播州峠からの杉原谷が使用されれば、安易に考えれば:動向が察知され難い隠密行動がとれる影の軍道ともなるのでは…?。中世末期の旧赤松家・在田氏が荒田城合戦で敗走の際・高坂峠に向かったのは金蔵寺から本拠城の野間山城ではなく、鉱山関連で繋がっていたと思える山名氏を頼り・生野方面を目指していたのかも…? 不図そんな事を想像して見たが…。
   大土塁外側の帯曲輪と水濠
画像
それなら在田氏滅亡の合戦前年・直近に在った!?杉原氏の門村構居が攻撃された際に救援が成されたのかが不詳不明。城を遠巻きされて救援出来ない状況になっていたものか?門村構居Ⅰに記した疑問は増幅するばかり。杉原氏に関して「会津什の誓」をかりれば…”わからぬものは わからぬのです…!!” 要衝とも思えない杉原谷の中央部に杉原兵太夫安久一代だけ?が居館を構え・詰め城を築き・
         水濠跡か?
画像
菩提寺を開基している。構居の縄張りは街道筋に向い三重の土塁と空堀を平行に延ばし、横矢を意識した折れ!?や櫓台を整えた防戦意識の陣城の様相におもえる?。土塁背後の広い丘陵部が居住空間なのかもしれないが?、緩斜面上の手が入り植林帯となっている中では推定も出来ない。
画像
城域末端の神社側・空堀・水濠外側となる寺の前に見る土塁囲みの平坦地形が居館(主郭)とも思えない。ただ城館遺構の素晴らしい!!残存状態は復興と称して天守閣のなかった城に天守閣とか、櫓や門が城の実態とそぐわない観光PR用の城から見れば、一部分ではあっても残存していることが貴重であり嬉しい。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック