後谷城:二人の赤井忠家 

標高僅か95mで日本列島を南北に分ける日本一低い谷中分水界「水分れ」は加古川水系が瀬戸内へ、竹田川の由良川水系は日本海へと流れ出る。山間に挟まれた丹波市付近の流域低地帯を氷上回廊と呼ばれます。春には加古川流域の河口付近から小野市・西脇市を丹波市に入り氷上町から青垣町へ、氷上町から春日・市島町へと続く河川沿いに桜を植樹した花回廊が延々と花のトンネルを形成していきます。
     白山を背に赤井伊賀守忠家の墓碑が立つ
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水分れ公園から西方に開く氷上盆地には南方の高見城から高度を落としながら延び出す尾根先に穗壷城が、其の前にはR175号を挟んで柏原川が加古川に合流する。加古川の流れの先に弘浪山白山を望む。
  赤井忠家墓碑と赤井家の”雁金”家紋
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白山の南山麓に赤井氏の本拠城:後谷城(居館)があり詰め城の後谷山城、白山登山道東側丘陵上の後谷東砦を其々にブログ紹介済ですが・・・井上(赤井)為家が新郷に移り赤井姓を名乗り、為家から9代目の赤井伊賀守忠家から時家・家清・五郎忠家と4代続いた赤井一族の本拠が後谷城。伊賀守忠家は穗壷城での戦いに敗れ自刃したと云われます。
      五郎塚
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家清(黒井城主:荻野<赤井>直正の兄)が松永長賴(八木城主:内藤宗勝)等と戦った際の傷で死去・残された幼少の嫡男が赤井五郎忠家で荻野<赤井>直正が後見人として赤井家を取込み丹波三郡(氷上・天田・何鹿)を領した。黒井城攻略の織田軍・明智勢と戦った高見城最後の城主赤井五郎忠家は落城時に逃れ、豊臣秀吉に仕え文禄の朝鮮出兵・関ヶ原の戦いには東軍に参戦し慶長10年(1605年)伏見に没している。高見城落城で敗走途上に赤井五郎が匿われた隠れ家と五郎塚の伝承が町界の山南町和田地区に残ります。

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