後谷山城(仮称)  丹波市

白山(赤城山)山頂には赤井氏の守護神:白山権現を祀る白山神社跡が、石垣・石積・祠の石礎檀や石燈篭を遺して残っている。もと後谷山城の主郭跡と思われ:高城とも上ノ城とも呼ばれ、旧名の赤城山は”赤井氏の城”の意味なのかも!!?。創建時の白山神社は山上から再び現在の白山山麓に遷移されている。赤井氏発祥の地に鎮座する白山神社社殿の建つ位置が後谷城(後屋城)主郭部の後谷館・赤井館で、下ノ城とも呼べる赤井氏の居館。典型的な居館(下ノ城)と詰め城(上ノ城・高城)セットの構成ですが、県遺跡分布図等資料に後谷城(居館)位置以外・周辺一帯の城砦遺構については空白のまま。
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後谷城(後屋城)の存在は知らずとも黒井城赤井(荻野)直正を知らない人は少ないかも…?。丹波の赤鬼の異名で知られ、織田信長の”丹波攻め”総大将:明智光秀に対抗し、一度は退散させた勇将で黒井城主:赤井(荻野)直正の出生地が赤井野の後谷城(後屋城)で、城主:赤井時家に二男(幼名・才丸)が、荻野氏の養子に入り荻野姓を名乗り・其の後黒井城主となります。
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弘治3年(1557)三好氏家臣:松永長賴(後の内藤宗勝:八木城主)との戦いによる傷がもとで後屋城主:家清(直政の兄)が死去すると其の子:赤井(五郎?)忠家の後見人として赤井家を取込み、永禄年中 (1558-70)頃には氷上郡(丹波市)・何鹿郡(綾部市)・天田郡(福知山市)の奥丹波三郡を領し但馬へも侵攻して勢力を拡げ永禄8年(1565)には内藤宗勝を滅ぼしている。赤井家を取込み奥丹波の国人領主を傘下に納めていくなかで、赤井直正と姓を名乗ったかは知らず?、未だレポートでは”荻野(赤井)直正”と表記しています…。
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後谷城(後屋城)の大土塁を左に見て後谷谷川沿い白山登山コースの五合目に休憩所がある。休憩所から登山道とは別に急斜で岩場も有る一寸危険な尾根が、白山山頂から北方に延びる枝尾根に合流する地点にかけて、二段から5段程の曲輪が4-5箇所程に分散して存在する。最下方の5段連続する曲輪群は削平状態も段差は低い(1-2m程)が切岸も綺麗に遺る。白山山頂側の上部二段曲輪には幅狭い鞍部に堀切と土塁と露岩を切岸に取込んだ曲輪もある。
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白山山頂から加古川(佐治川)沿いの氷上盆地の眺望は優れ、眼下の領内から穗坪城ー高見城へと城砦群を連ね延びる尾根筋を望むが、監視・物見台は細く急斜な西尾根部分のみで曲輪遺構は無さそう?。北尾根筋の曲輪群は居館からの詰め城とするには方向が逆。麓には集落も無く篠ヶ峰に向かう林道と現:ゴルフ場だけで、弘浪山を望むだけの短い尾根。度重なる合戦場となった弘浪山の高山寺城に対峙する向城か?。
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後谷城落城後:山上に築造され白山権現が奉斉されたため往時の遺構状態は想定も出来ないが、天正期の城域が領地や要衝監視からも外れた背後の位置から考えても疑問が残る。後谷城のホントの詰め城(高城)は他に有るのかも知れない。山麓から望む二瘤の白山の姿は印象的だが、東に少し低い三角点峰487m(未踏)が詰め城としては、後谷城からは背後に砦が在ったと思える西尾根続きや、谷村城(推定:遺構未確認)からも尾根続きなので、監視・防備・眺望等の立地位置からも有力と思える。
  等高線付地図が無く位置指定出来ないが凡そこの付近?連郭部

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