中城城 沖縄

中城城は沖縄東海岸中部:太平洋を望む東に中城湾 ・東シナ海を望む西に勝連半島や知念半島を見渡す標高167mの石灰岩丘陵の東崖縁を天然の要害として立地している。中城城の創築年代は定かでないが14世紀中庸頃まで先中城按司【城主等資料もなく、此処では護佐丸以前の按司(領主!?)】により基礎が築かれ、中山の尚巴志による三山統一まで続き大手側の主要郭が築かれた。
  城壁と石塁の曲線が美しい!!二の曲輪と一の曲輪(主郭)の城壁とアーチ門
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勝連城の茂知附安司が勢力を拡大してくると1430年琉球王朝:第一尚氏王統2代尚巴志は座喜味城護佐丸に中城の地を与えて築城を命じ、首里城の琉球王府の備えとして、勝連城を牽制した。1440年:王統3代を継いだ尚忠は王命により読谷山按司護佐丸を座喜味城から完成した中城城に移封した。
  記念運動場?から三の曲輪と裏門アーチ門(護佐丸の増改築部で城壁はアイカタ積<亀甲積>)
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尚巴志の忠臣として三山統一の功労者:護佐丸盛春は、嘗て祖父が城主であった今帰仁城に北山王統:攀安知を討ち滅ぼし今帰仁城座喜味城・中城城へと、ユネスコの世界文化遺産に登録された「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の5城の内の三城に居城した。
  
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1458年「阿麻和利・護佐丸の乱に護佐丸は(通説?)では讒言により王統6代尚泰久王府軍の主将となった阿麻和利に攻められた。謀反を疑われ戦わずして自害し・忠節を全うした護佐丸は、沖縄では今も人気が高い武将であり築城家。尚泰久の正室は護佐丸の娘・勝連城の茂知附安司を滅ぼし自ら按司となった阿麻和里の妻は泰久の娘…と婚姻関係にあったが、阿麻和里も王権復興の謀反により滅ぼされる。
  西の郭から正門・南の郭にかけては発掘調査中
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讒言・陰謀により護佐丸・阿麻和里の二大勢力は滅びたが、此れは琉球王統:泰久等の策謀であったともされるが謎。王統も此の後:王位をめぐる内乱志魯・布里の乱が起こり共に斃れ、第二尚氏王統の時代に入る…。護佐丸の子は阿麻和利・護佐丸の乱に逃れ、子孫は第二尚氏王統の初代:尚円に登用される等…王府の主要役職に就き、、琉球屈指の名門の一つとして栄えた…と云う。 
  広大な一の曲輪
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護佐丸の中城城は其の後:琉球王府の天領(直轄領)として使用され、慶長14年(1609)薩摩藩主島津家久が琉球に侵攻して以後は番所として、明治12年(1879)沖縄処分<廃藩置県>後は中城村役場として戦前まで利用されてきた。第二次世界大戦の太平洋戦争末期 :沖縄の地上戦での被害も少なく城壁の石積み遺構が良好に遺されている事で特に知られる様ですが、西の郭から正門・一の郭・南の郭等は発掘調査中。おまけに広大な一の郭や南郭北城壁越しには、さらに城郭が出曲輪が在ったと思える近距離の向い丘陵部には、奇っ怪な使用されないまま廃墟となった中城高原ホテルが撤去されないまま残骸を晒している。世界遺産に登録された歴史的意義等の理解と認識を深める有意義と共に、観光の城ではあっても見たくもない景観には折角の世界遺産登録に大きな影を落とすマイナス点ですね。選ばれた富士山の一部景観が除かれたり・選外となってしまった鎌倉に歴史遺産が少ない事等…検討・対応は緊急かも?
 <城内案内板・城址パンフレット・関連項目はWikipedia等を参照>

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