生野古城Ⅰ

但馬:朝来市の生野町は丹波市や北播磨の多可郡・神崎郡との境に位置しており、生野峠(真弓峠)では但馬:山名氏VS播磨・赤松氏による宿命のライバルによる合戦場ともなった。嘉吉の乱(1441年)には峠に布陣した赤松(赤松満祐の弟:義雅)軍を幕府追討軍の山名(宗全)持豊が追い返し、反対に播磨に侵攻した。後:文明15年(1483)赤松政則が但馬へ侵攻の際も山名氏勢に攻められ、赤松軍は敗走・播磨側へ退却します。
  生野城Ⅲ郭の虎口を入ったⅡ郭側切岸の石垣跡
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生野城は生野峠(真弓峠)を越えて侵攻してくる播磨赤松氏に対して警備する前線基地で・但馬山名氏が播磨へ侵攻する際には大軍を揃えての出陣の基地ともなったようです。
築城時期や規模等は不明の様ですが応永30年(1423)山名時熈(ときひろ)が本拠地の此隅城(出石町)を子の山名(宗全)持豊に譲り、隠居所として築かれたものとされ、時熈は折あるごとに父:時義が創建の雲頂山大明寺に参籠しています。大明寺は生野城下の口銀谷から市川沿いに銀山湖を経てR429号<丹波市青垣町へ抜ける>を約12km程?上流の黒川ダム・黒川温泉に在る。
口銀谷散策Ⅰ 生野義挙の碑・生野平城
口銀谷散策Ⅱ 生野まちづくり工房・井筒屋やトロッコ軌道 
  生野城:主郭南面切岸に石垣跡
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応永34年(1427)播磨守護:赤松満祐が四代将軍足利義持に反抗して兵を挙げた際、義持は但馬守護職にあった山名時熈に討伐を命じます。時熈は兵を率いて生野に出陣した際、生野城北面の御立山に生野山城(砦を大改修したかも!)を築き!!…?、播磨赤松氏に対する監視・・防備と討伐の準備を整えますが満祐が将軍に謝罪し赦されて討伐は行われず時熈は兵を退き出石に帰ります。
    自然地形のままの曲輪?”びわの丸”から市川沿い生野の街並み
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天文年間(1532~1554)頃には口銀谷に在る城山の南表で次々銀鉱脈が発見され但馬守護代の但馬竹田城主太田垣氏が領有していたと思える生野銀山を天文11年(1542)主家の但馬守護:山名祐豊が横領して直接支配し経営に乗り出す。
  主郭からの東尾根末端曲輪は足下まで大規模に切り崩された採石・採土の断崖が迫る
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其の後・大規模な山城の改修に着手し山麓には平城(居館)を築いた。此れにより山城を生野古城・持豊の居館を生野新城(後の生野代官所に三層の天守閣・隅櫓・外堀を備えた城が築かれますが、鉱山権益をめぐる戦いは弘治2年(1556)山名氏に離叛した竹田城主:太田垣朝延が山名祐豊から再び銀山の領有権を奪還します。天正5年(1577)織田信長但馬攻略命を受けた羽柴秀吉軍により生野城守備の家臣は竹田城に退却、太田垣朝延も生野銀山の権益を守るため降参して竹田城も落城する。
  主郭東尾根の唯一土塁囲曲輪(織豊系?)東下への尾根上に遺る石段
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   T氏による縄張図作成用計測メジャーテープが延びる
信長も生野銀山を狙っており、信長の死後は秀吉に、慶応5年(1600)関ヶ原合戦以後は徳川家康が生野の地を天領として支配し、生野新城(生野本陣)を代官所として、間宮新左衛門を初代奉行に、清野与右衛門を初代代官として派遣し銀山経営にあたり、鉱山収入は260年にわたり幕府の重要な財源となった。
   下記地図は生野城への一般登山口「びわの丸公園」

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