淡河城 神戸北

萩原城から湯山街道【2年に及ぶ三木城包囲の飢餓作戦では、羽柴秀吉が有馬温泉へと三木の本陣から通った県道38号】を西へ走るとR428と交差する淡河本町に「道の駅淡河」がある。其の施設に向かう西南方には河川段丘の急崖の上に黒っぽい模擬櫓と「淡河城跡」の看板が見えています。
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城主淡河定範は三木城主別所長治の義理の伯父:三木合戦に長治の三木城を攻める羽柴秀吉に付いて参戦していた別所重棟もまた長治の叔父にあたります。天正13年秀吉より15000石で但馬:八木城主となった重棟に比べ、三木合戦前哨:三木城への兵糧輸送基地となっていた淡河城を攻める淡河合戦での奇策や三木城籠城戦では平田大村で奮戦した知将・闘将として以外知られる人物です。
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天正7年秀吉軍との淡河合戦では、敵軍中に牝馬を放ち敵の騎馬軍団を混乱させという。一度は秀吉軍を敗退させた要因として創作された伝承なのでしょう?。其の敵陣が淡河城周辺に置かれた陣城・付け城群ですが、淡河城と同じ段丘稜上・直ぐ西と西南に築かれた付け城についての訪城レポートは後日」・・・。
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勝算なき戦いを見定めてか 秀吉方の総攻撃前に、城から出撃した城兵を率いて夜間に乗じ・そのまま三木城に入っている。三木籠城の向う別所方の動向を監視する各所に張り巡らされている包囲網を欺く、此れも奇策だったのかも知れませんね?。
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もぬけの空となった淡河城は落ち、三木城に籠城した定範も同年9月三木城包囲の大村砦に出陣し、加佐八幡の森で一族郎党と共に戦死。羽柴秀吉に占領された淡河城は萩原城主有馬法印則頼に1万5千石の居城として与えられ、九州征伐・朝鮮征伐(文禄の役)に従軍し、関が原の合戦での功により慶長6年(1601)三田城に移り城は廃された様で、淡河城天守台跡には有馬氏等による城址顕彰碑が立つ。
 

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