小浜宿 宝塚市

前日のブログ小浜城で紹介した宝塚市小浜4・5周辺は、R176号と中国自動車道に挟まれた一隅にあって、僧:善秀が明応年間に小浜庄を開き・毫摂寺を建立し、小浜御坊とも称された毫摂寺(浄土真宗本願寺派)を中核として宗徒や町人により寺内町として発達してきた。
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戦国時代の創建で他宗派や領主による攻撃に対し防御性の高い地形にあって、織田信長の一向宗への弾圧にも耐え・正親町(おおぎまち)天皇の仲介に和睦したと云う。寺内町は其の防御性の高い地形からも”惣構え”の城塞都市としての片鱗が観られます。北域から西-南域にかけての三方を大堀川が環濠として廻り、東域(中国自動車道)側の安倉地区に今も残る大池や溜池群を溝堀や土塁でつなぎ、大堀川や中山寺方からの川水を引き込めば独立性が保てる。
  大堀川(黒鉾橋:首地蔵下)付近
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主要幹道の山陽道(西国街道・京街道)や山陰道・摂津等街道からは少し外れるが、南北750m・東西400mの環濠集落内には三か所に門が設けられ、東門・北門・南門は中央部に位置する毫摂寺の西・現在皇大神社(制札場があった)前で交差する。近くに市立小浜宿資料館や宿場町としての佇まいが残されています。
      南門跡:正面右の小学校裏手筋が毫摂寺に通じる
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江戸時代には交通の要衝として幕府の庇護もあり宿場町「小浜宿」は旅篭・脇本陣・木賃宿の他、商家・馬借や茶屋・芝居小屋等が軒を連ねる賑いを見せていたといわれる小浜宿ですが、歴史的な街並み景観も・兵庫南部地震による被害は甚大。江戸時代中期・腕の良い大工や左官業が沢山いる大工の町として享保8年頃には「小浜組」という大工の集団が結成されていて、小浜PRの小浜工房館「とんかち館」・杉玉を吊るした造酒屋・通りの東端:小浜会館前には小浜相撲の番付や制札等が展示されている。
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小浜小学校西の北門跡からは首地蔵側を抜け大堀川を小浜交差点から武庫川を渡る西宮街道。東門跡からは池に挟まれた通路を伊丹方面に抜ける京伏見海道が、北門跡からは国府橋を米谷地区へ渡って三田・丹波方面へも通じる有馬街道と交差する交通の要衝で、西国24番:中山寺へ短絡の巡礼道ともなっていたものか。米谷に有った塚が「宝塚」の語源とも伝わる…が。訪問時は山車が揃う恒例の「小浜宿まつり」開催日に僅かにはやくて見物できなかたのが残念…

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