前期柏原藩初代:織田信包像

今年(2014年)3月:(後期織田家の)柏原藩陣屋の長屋門とは車道を挟んだ向かい、柏原歴史民俗資料館並びの小庭園に柏原藩初代藩主:織田信包(のぶかね)像が建立された。
ツツジ太鼓・八幡神社・木の根橋と共に柏原町内観光で外すことのできない藩陣屋前:加賀の千代らと並ぶ”元禄四俳人の一人・田ステ女”:但馬聖人と呼ばれた池田草庵とは友人だった”丹波聖人・小島省斎”と並べば・・・丹波柏原を代表する有能な人物の一人なのでしょうか?・・・
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偏見を許していただければ・・・建立碑文からも丹波の外にいた人物。前期織田家の3代信勝には仕えている田家ですが、田ステ・小島省斎はじめ周辺に見る八幡山城(丹波攻めの本陣)・藩陣屋・廟所等、織田神社以外に前期織田氏の影が見えない!!?ので何かシックリしないものを感じてしまいますが・・・異議・異論するものではありませんよ…。柏原藩主として130年有余を経てやっと悲願叶った居館を前に座す姿なのでしょう!!?。
後期柏原藩の織田家陣屋
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柏原ライオンズクラブの結成50周年記念事業として寄贈されたものですが、織田信長の実弟(4男?)で・お市と其の三姉妹を庇護した事はドラマでも知られるところだが、柏原藩主の代行で実務に就いていたのは”江”の夫となっていた織田家一族の佐治与九郎(一成)。秀吉のお伽衆として、秀頼の後見役として信包が柏原の地に居たという余裕?があったも?のか実績は不詳で、贔屓目ながら新田開発や治水工事を行い、若くして(28歳!)亡くなり継嗣無く断絶した前の柏原藩3代目の信勝になら(判官びいき)…と思うのですが
  後期柏原藩織田家廟所(初代:信休から9代:信民までを祀る)
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像の設置場所も:前期柏原藩の織田家3代が祀られる柏原八幡社下(木の根橋向かい)の織田神社が妥当?とも。藩陣屋はおろか居館も持てなかった信包ですが、藩邸建築の許可を得て、後期柏原藩初代信休のとき・やっと仮御殿となっていた郷士の屋敷から移った柏原城が(城の許可は下りず)現:陣屋ですが、此処に元は陣屋の表御殿側に在った田捨女像・丹波聖人と謳われた小島省斎の顕彰碑に挟まれるように座す。

   藩陣屋の並びに大手会館があり、車道を挟む西:水の流れる側溝は<リンク・サイトのⅢ:藩陣屋~に画像添付あり>土塀外から石積トンネル状を介して土塀内側へ引き込まれ、地方裁判所南側の堀を西に流れ出る。織田家の木瓜紋も残る土塀だが内部は極最近更地となってしまった。  
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柏原藩は60年!?程の天領期を挟んで前の織田家3代と、後の織田家(大和宇陀松山藩28000石から20000石で転封となった)織田信休が後期織田家初代で10代続いた。信包・信則・信勝の前期織田家廟所は成徳寺に・後期織田家廟所は徳源寺(廃寺)内にある。

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