豊地城Ⅱ 小野市

小野市立会館コミュニティセンターに在る誉田の館いろどりの模擬二層櫓は豊地城の復元図を模したものという。二階の望楼からは湾曲する東条川傍に突き出す丘陵部先端の小田城が目の前に望まれるが、豊地城は更に東条川の上流…。東条川流域の地形・水脈が豊穣な地となり”豊地”の名がついたものか?。
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また中国自動車道と並走する県道17号・東条川沿いに走る県道75号が、西に来た播磨から丹波・但馬方面へ、南は三木・神戸方面、東は吉川・三田を経て摂津・京都へと繋がる重要な街道筋で、南北朝期から中世戦国の豊織期における数々の戦乱の攻防が繰り返された軍道ともなっていました。豊地は拾市とも呼ばれ中世には交通の要衝に市(十日市場)が立ったところ。
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豊地城<小野市中谷町字城ノ土居・字宮ノ内>は別名:拾一城・拾市城・東条城・依藤城ともよばれ、東条谷を領した依藤氏の本拠城。嘉吉の乱(1441)に播磨の守護:赤松満裕に従った小田城主:依藤豊房は幕府軍との城山城戦いに自刃。一時衰えた依藤氏は赤松政則に付き(1465)赤松家を再興した功績に、応仁の乱(1467-77)後!!?には依藤則忠?が東条谷を領して豊地城に入る・・・以降城史は旧ブログ豊地城(2010年)にレポート済みなので割愛。
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宿敵:山名氏との真弓峠(但馬生野)の大敗に赤松政則を追放した赤松旧臣:依藤氏等は、将軍足利義尚に有馬(赤松)慶寿丸を擁立し突然?赤松被官筆頭に座った別所氏との東播磨派遣争いも、永禄2年(1559)別所重棟の攻勢に豊地城・屋口城(落城後は別所氏の持城として三木合戦前まで別所重棟とも家臣の吉田伊賀守が居城していたともされる)…等近在の城を落とされ依藤氏は滅びます。中世城郭遺構がほぼ完存する屋口城へも再訪したかったが…今回は不訪
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豊地城跡の碑が立ち堀で囲まれた西郭の観音堂から北方は、前回・発掘調査中の城畑(しろんばい)の土塁や東条川傍の墓地付近の曲輪等は、県道付替えバイパス道で整地されて消滅、大土塁が遺る中央郭(主郭?)の北道路沿い<調査のトレンチ溝等があったところ>に豊地城跡の案内標識・”といち城跡 中谷町”の城址説明付き石碑・道路沿いにベンチ付き休憩スペース?が備えてあった。
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新しい県道沿いに東隣の八幡神社(豊地城域での最高所に位置する東郭)に入る西面曲輪の切岸に沿って延びる低土塁線や、三郭を区画する溝が、往時の堀跡と推定は出来るが、此の城も単に廃城ではなく三木合戦後に城割(破城)が行なわれた遺構があるが秀吉によるものか?。直ぐ南方には屋口城があるが破城が実施された形跡が無い事も秀吉方の別所重棟か、破城を実施した後に小野藩主一柳氏の家臣が拠った城だったからなのかも?。
    豊地城東郭(八幡神社)位置

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