マンボウトンネル  西宮市

尼崎市から武庫川を渡り西宮市に入った甲子園から、震災後の新設された”さくら夙川駅”の西・夙川を越えた付近までの約4㎞区間をR2号と並走するJR神戸線(東海道本線)沿線は定規で引いたように一直線の線路が東西に通じる。北方に甲山や北山・東六甲の山並みを控えて其の間・南北を僅かに久寿川・津門川・東川等数本の川を越える堤防の急傾を避けるためか?、高い盛土の上に敷設された長い直線堤防道が山側(北)と西宮港へ流れ出る南側を分断している。
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山側の阪急線・浜側を走る阪神線に比べれば、途中に山や丘・大きな湖・池も見当たらない。明治に敷設された鉄道路は広大な田園地帯の中を走っていたのでしょう。無数の灌漑用水路も宅地化で水田への配水施設用は激減。一部の溝谷は経路を変えながらも鉄路堤下の用水路を通して南側へ流れ出たのでしょう。現在では殆ど用を成さななくなった水路の上に板を敷き人が通路として利用できるように橋梁化されているものが、西宮市内には3ヶ所【甲子園口駅の西・阪神西宮駅北2号線傍の平松町・芦屋市境に近い大谷町】にある。
殊に人が通行できる橋梁がマンボウと呼ばれ、兵庫南部地震までは自宅真南に500m程にあって、JR東海道線の下を潜る煉瓦造りアーチ型の通路平松町マンボウ(トンネルの長さ約20m程・高さも屈むほどではない1.7m程(小柄なので!!)?)は、阪神電鉄西宮駅への通勤経路だったが、谷崎潤一郎の『細雪』にも登場する
     R2号「産所町」交差点側から・左の店も外壁イメージ以外変わらず…
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マンボウの語源は明確でなく、オランダ語のマンプウ…とか、間歩【(まぶ・まんぼ)と云われる鉱山の坑道で、人が辛うじて立って歩けるくらいな隧道…】ともされます。南へ抜け出た震災前からの店は同場所で営業再開されているR2号線の産所町交差点で、石燈篭が立つ南へ直進する県道193号側かは西宮神社への「えべっさん筋」西国街道。直ぐ先の旧西宮電話局跡には傀儡師故跡の顕彰碑像が立つ。産所町の産所は散所・算所・三所…等の当字で表されるが天皇・貴族・有力寺社等 :荘園領主の本所に対する呼び名で、此処は西宮戎神社の散所として発達してきた集落。
   北に抜けた平松町側から(JR線電車の通過を待てば良かったかな)
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阪神西宮駅からR2号線に出て、JR東海道線沿線を抜けて北方へ向かうのに、西は安井小学校前のバス道・東は札場筋に出てR171へのバス道まで約450m程間を分断されているので、その中央部にある平松町マンボウは歩行者・自転車通行にとっては迂回せずにすむので便利・利用価値高く通行する人が多いのは当然。溝(ドブ)の饐えた臭いが気になる時期もあったが…
平松町マンボウを北側に出たところに、息子たちがお世話になっていた幼稚園がある。震災時は救出されたのが遅かったので!!避難所に指定されていた安井小学校にも待避できず、幼稚園に受け入れてもらい田舎で療養するまでの数日間を此処に避難することができた。
   震災以後・此の20周年通ることもなくなったが…往時のまま遺構変わらず
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この幼稚園西角を真っ直ぐ住宅地内の直線道を北へ進むと、震災前には両度町付近まで延びてきていた山手幹線道が、いまは分銅町を二つに分断して、阪急夙川・カトリック教会傍を芦屋市側へと一気に延びている。分銅町の山手幹線道路北側歩道部に掛かる付近が宅地だったが、周辺に往時の姿は見いだせない。
比較的震災以前の住宅街面影を残しているのが、『細雪』に登場する一本松付近?。マンボウを北に抜け出た一本東の通り。張り出す一本松地蔵尊の祠があり、塚を避けるように車道は膨らんで北上する。妻の話だと55-60年前までは東西車道間の一本松地蔵尊前の幅狭い通りだが、地蔵盆!!の際には盆踊りした思い出があるという。いつしか盆踊り等の催しは阪急夙川駅南の公民館(池がある)近くに場所は移された様だが。

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