篠山城大手馬出

慶長13年(1608)江戸幕府を開いた家康が実子?(落胤説あり)松平康重を3万石から5万石に加増され篠山藩(八上城)へ転封させ、篠山盆地中央部の小丘”笹山”に新城を築城させた。姫路城主:池田輝政を普請奉行に命じ、縄張りは藤堂高虎を起用し豊臣恩顧の西国大名【福島正則 ・毛利輝元・浅野幸長・山内康豊・蜂須賀至鎮】等約15ヶ国23の西国諸大名に賦役する天下普請で着手され翌:慶長14年(1609)9月頃には・ほぼ完成して同年12月、松平(松井)康重が初代の城主として入城します。 
>篠山城大手廊下門と三ノ丸大手門跡・中央奥に築城候補の一:飛ノ山城
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表向きは豊臣恩顧の西国播磨や但馬方面の大名等を牽制する為か北方を大手にした縄張りだが、真は大坂城攻略の為の核としての包囲陣!!?を、西日本の大名を動員しての天下普請により僅か一年余りで構築された。堀を二重に廻らし、外堀の三方出入口(虎口)にとして馬出しを設け、鉄壁の防御に天守は許されなかった?とも云われるが、実戦向きの城として天守は築かれなかった様。
  全国に唯一残る土塁馬出遺構の南馬出と外濠
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外堀から場内へは西面を除く・三方の出入口に配された角馬出防御施設が篠山城の城郭特徴で、南馬出は現存する土塁馬出遺構としては日本唯一の貴重なものといわれています。篠山城には東馬出北(大手)馬出の3カ所に角形の馬出が、外濠から突き出す形の凹字形土塁囲みの曲輪です。
     石垣造りの東馬出
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北馬出(大手馬出)は石垣造りだったと云われる?が、大正年間:道路拡張工事で破却・埋立てられ、現在”たんば田園交響ホール”南西角の交差点・車道沿いに面して僅かに土塁の一部が遺されている。長い間・立木と雑草類に覆われ「大手馬出土塁の一部」標柱だけが其の存在を示していたが、殆ど関心を寄せる人も居なかった様に思えるが、立木は伐採され・雑草は刈り取られ往時の遺構の片鱗を覗かせています。
   大手馬出(車道を挟んで外濠から三ノ丸大手門跡)
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東馬出の石垣(曲輪内は小公園風?に改変)・南馬出の土塁はほぼ遺構は完存して残る。”馬出”の名称からも城への出入口(虎口)と同時に、場外へ撃って出る兵馬の”武者溜まり”としての重要な要素を兼ね備えていたのでしょう。
       大手(北)馬出  ↓

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