青山歴史村 篠山

篠山市内の歴史散歩には篠山城と其の濠の周囲に遺る武家屋敷群等に在る・四つの資料館を巡る事から始めるのが専決?かも。歴史といっても天正末期-江戸時代から明治期に掛けての篠山城はどうしても?青山家関連が中心・最後に篠山地方裁判所(現:市立歴史美術館)も覗いてみるが…。
関ヶ原合戦(慶長5年)に勝利した徳川家康だが、大阪城には豊臣秀吉実子の秀頼がおり、豊臣恩顧の西国諸大名達に睨みを利かせる為にも、笹山の地を大阪城攻略の拠点とした。此の地が摂津から山陰道・山陽道から京街道へ通じる要衝の地。
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慶長14年(1609)徳川家康は此の要衝の地に、嘗ては秀吉に従った西軍大名(外様大名)達に助役を命じて動員し・その財力の消耗を図り・労力を負担させての天下普請で築城させたのが篠山城。北方を大手としているのは大阪城を刺激させないよう表向き但馬方面からの防備?としたものか?。天守櫓に閣は築かない実戦向き近世城郭。
 篠山藩主青山家の別邸:桂園舎
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篠山城主は八上城から移った松平康重に始まる徳川家一族の:松平(松井・藤井・形原の三松平氏)の後・松平家に仕えた青山家が六代居城し明治維新を迎えるが、篠山市民にとっての城主は文政年間(1818~30)篠山藩主青山下野守忠裕(ただやす)が江戸幕府老中を務めていた頃、の負け嫌い稲荷伝説・篠山藩13代(青山家第5代藩主青山忠良(ただなが )が大坂城に在職中のお苗菊(篠山中菊)のこと・特に藩窯の王子山窯発祥による特産物を生み出し、春日神社に能舞台を寄進している。
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教育面でも篠山藩第9代藩主(青山家初代藩主)青山忠朝(ただとも)は寛延4年(1751)儒学者:関交平を聘招して藩の有志を学ばせ、2代目忠高(ただたか)が明和3年(1766)藩校振徳堂を創建。廃藩置県に 「振徳堂」は廃校となるが、旧藩領に残す置き土産として:明治9年(1876)篠山藩13代忠良の子第15代当主:忠誠(ただしげ )が旧藩士の子弟教育の為、福沢諭吉に図り講師を招き、私財を投じて私立篠山中学年舎(鳳鳴義塾の前身)をつくる…等、篠山市民にとっての歴史を伝える4文化施設は「青山さま」一色の気がする。
  篠山の和算家(数学)の権威:万尾時春碑
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篠山市歴史4文化施設の一つ青山歴史村は、先のブログお苗菊(篠山中菊)菊花展会場から北堀沿い高城屋敷門の西隣に在って、藩籍奉還後:篠山藩主青山家の別邸として建てられた桂園舎を中心に3棟の土蔵と長屋門から成っており、先ず迎えてくれる茅葺の長屋門は文化年間(1804~1818)の建築で、昭和32年(1957)移築された旧篠山藩旧藩士澤井家のもの。
   篠山城惜別の碑
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昭和62年から青山歴史村として一般公開されていた管理元の財団法人青山会から篠山市に全資産が寄贈され・平成11年?より市立史料館として青山家ゆかりの品々や藩政文書・藩校「振徳堂」の蔵書等の保存・資料等を調査研究にと公開されている。展示資料には:漢学書版木(篠山藩校教科書として使用された)と鼠草紙(長さ26mに及び、鼠の権頭(ごんのかみ)を擬人化した悲恋物語か・鼠として生まれてきた悲嘆?を語るお伽草紙)で嫁入りの際の持参本とも云われるが鼠は神様の使い。狐も神様の使いで・嫁入り話では丹波市には大河の嫁ヶ橋のむかし話がのこる。
   青山家の家紋【無紋銭(無地銭)】入り瓦
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「漢学書版木・鼠草紙」を筆頭に、杉戸に描かれた狩野派の絵・源氏物語絵巻6巻(須磨・明石)・篠山藩主青山家の書・篠山城石垣修理伺い図面等を展示・ 内庭には一見・井戸かと思えたが、花崗岩の板石を組み囲った金櫃【藩政時代に使用されていた石の金庫】は、篠山藩の貨幣司が藩内の金融取引をしていた掛所(現:さくら銀行篠山支店)に在った土蔵床下の土中に埋められていた櫃を移設したもの。
   内庭の金櫃(右奥)と無紋銭を形成する坪庭
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篠山の数学(和算家)の権威:万尾時春の顕彰碑・篠山城惜別の碑(篠山城最後の藩主:青山忠敏<ただゆき>が明治2年廃藩により東京に去る・藩士で初代篠山町長・安藤直紀の撰文及び書)・青山会の由緒…等石碑や案内説明板が立つ。蔵内展示品の中には説明書きは有るが青山家と関係のないものも持ち込まれ展示されているようで注意!!?も必要 だが、江戸時代の政治や生活実態の歴史文化を知る史料の数々が展示されている。勿論:青山家にとって:縁起の良い穴あき銭(無紋銭(無地銭))については、家紋入り瓦の展示側に其の由来等案内板がある。

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