甲ヶ峰城 綾部市

山家陣屋跡の山家城址公園入口に模擬の表御門と、その前には[山家城址」石碑が建ち、更に先へ延びていく地区道?を挟んだ向かいに”甲ヶ峰城(左衛門屋敷)・照福寺跡”への案内標識がある。案内標識に従って鳥居を潜る急な階段道の上部を仰ぐと磐座を背にして鎮座する伊也神社がある。
  最初に現れる土橋付きU字(八字)状堀切
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宗神天皇の御世・丹波道主命がこの地に降臨され甲ヶ峯の麓に宮を築き 祀られたのが初めで後、伊也神社を勧進し何鹿郡(綾部市)の延喜式 12座の一に数えられています。天正年中(1573-92)の火災【和久氏の甲ヶ峯城を攻めた明智光秀軍の兵火!!?】や明治初めには山家陣屋の火災でも類焼しています。
  腰曲輪から左手奥の虎口へ、右手は主郭の帯曲輪
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甲ヶ峰(城山)山上には天田郡和久郷(福知山市R429号が走る和久川沿い:R9号の合流点新庄にある茶臼山城和久城が和久氏の本拠)から此の地を領して移ってきた和久氏が築いた山家城(甲ヶ峰城)がある。横山城(福知山城)の塩見頼勝が天文年間・長男賴氏が横山氏を名乗って横山城に、三男利勝を猪崎城・四男和久左衛門長利を和久城(茶臼山城)に配している。
   主郭部東面に沿い堀切まで延びる帯曲輪
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和久氏は八木城の内藤氏に従い何鹿郡に入部し永禄6年(1563)和久左衛門佐義国が甲ヶ峰に築城している。…が永禄8年黒井城主荻野直正と丹波守護代:内藤宗勝の[和久郷の戦い」に宗勝は戦死・内藤勢は鬼ヶ城へ敗走。自領安堵を願う国人領主の牧氏・和久氏らは荻野氏傘下に参入し鬼ヶ城を攻撃。氷上(丹波市)・天田(福知山市)・何鹿(綾部市)三郡を支配した 荻野直正も、足利将軍義昭を奉じて上洛した織田信長に、挙って帰順するが、
    主郭(本丸)北端土塁からの大堀切
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義昭が信長と対立・やがて京都を追われると丹波の国人衆の多くが信長から離反していく。和久氏は天下布武の丹波攻略(明智光秀)時には明智傘下にあったものか?。明智光秀の甲ヶ峰城破却令に、「あれは屋敷であり・祖霊を祀る菩提寺(寺庵)で城ではない…]と破却令に叛き討伐を受ける原因になったと…。
   照福寺跡(出曲輪)東側の土塁線
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天正10年(1582)谷氏が山家に移封され甲ヶ峰城に入っているが、後に城を廃して麓に陣屋を築くが、現在残る遺構が陣屋に許された施設規模かと疑問に思えた。陣屋以前:居館として造成して山城セットで機能していたものか…!!?。

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