丹波佐治城(青梨城) Ⅱ西郭

先のブログ丹波佐治城(児島氏城) Ⅰ東郭記事に於いて、当初?佐治城を築いたとされるのが児島伊豆守意種!?。元弘年間:後醍醐天皇の挙兵に丹波南朝方として参戦 した児島高徳に付いて荻野朝忠(丹波守護代:建武4<1337>-康永2年<1343>だったとされる人物だが?)・当地領主足立(?)氏等と六波羅を攻めとされ、退いて弘浪山高山寺(氷上町)に籠もっているが、児島高徳との関係等は不詳。   
   西郭:主郭側の土橋付き堀切
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この時期の丹波守護が仁木頼章でこの後・山名時氏に替り、観応2年(1351)再び賴章が守護職を、朝忠も文和1年(1352)守護代に就く等、尊氏に対するものか?南に北にと主旨を変える混迷ぶり…!!。 後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の元弘の乱を起こすと、天台座主から還俗して参戦した天皇の子:護良(もりよし)親王が、神池寺に挙兵し兵を募った伝承が真実味を帯びてくる。
  西郭尾根末端の秋葉社も曲輪
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[氷上郡志]に云う丹波佐治城(児島氏城)が八柱神社の西方山嶺にあり…とは当に此の西郭を指しているのですが。城址へは公民館(来楽館)から西往寺の側道を、または佐治宿を北へすぐ・・・・コミュニティ・スペースとして改修中の旧家(衣川邸→衣川會館として)脇・、邸の黒塀・側溝沿いの路地を抜けると日本イエス・キリスト教団青垣協会前に出る。傍の古いが重厚な石積の屋敷跡には建物跡の広い平坦地と今も水を湛える池廻式庭園の石組みが残る。
  秋葉社2段程の曲輪を越えると土橋付き空堀・山頂部主郭に着く
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児島省斎の塾竹西亭は中島氏の別邸で、名園だったと云うので当初は此処がそうではなかったかと思える。佐治城(青梨城)とは文明2年(1470)但馬竹田第3代目<1479-1521>城主となる太田垣宗朝(新左衛門)?が丹波に侵攻し青梨山に布陣したといいますが経緯については不詳。但馬山名氏は山名四天王の太田垣氏等家臣団の勢力争いが激化し、山名氏の権勢が衰微し始めていた頃?。
  主郭:尾根続き側に低土塁・左側に土橋付き空堀
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文化2年の少し前:山名氏方が細川方の内藤氏に圧勝した夜久野ヶ原合戦(1468)の際、山名氏勢が与布土川沿い(現県道276号)粟鹿山麓伝いに青垣町小稗に抜けて、丹波街道に廻り込み細川方の兵量輸送路を遮断しているので、其の際:佐治宿【西郭(足元に中心部の西往寺・来楽館を)・東郭なら佐治宿入口から中心部までを監視】に布陣したのでは?。夜久野合戦では此の勢力が退路を絶っての囲い込みに但馬山名方が大勝している。但馬勢が丹波側への侵攻ルートはお杉地蔵伝説の”おすぎさん”も与布土から藤阪へと通った大稗や小稗から但馬竹田方面へ越える道か。

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