瀧山観瀧寺Ⅲ 滝山城(観瀧寺城<仮称>)

古写真や建築物には特に造詣が深く”近代化遺産めぐり忘備録”ブログの管理者「べーさん」には、以前にも福知山市内の城郭遺構についてのコメントをいただいていた。口榎原・榎原の瀧山観瀧寺は元は奥榎原の丘陵上にあったが伝承のみ・其の所在と遺構を確認され、詳細レポートをいただいたのを機に、私も探索してきた。
  西郭西先端部の一文字土塁
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先のブログ”瀧山観瀧寺Ⅰ 鉦鼓滝”で其の位置と登路ルート等。 ”瀧山観瀧寺Ⅱ 観瀧寺廃寺跡”では榎原の語源や中世山岳寺院の観瀧寺縄張りが堀切を境に、様相も異なる事を記した。
 
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観瀧寺の西郭部は其の主曲輪を中心として周囲に曲輪を配し、東へ・また西へ延びる曲輪内への立入りを避けるように延びる土塁道があり、余り他城遺構にも見掛けない特異なものに映った。個々曲輪規模が大きく、寺院跡として堂宇の礎壇跡らしい石材が散存しているが、低土塁・土塁道・一文字土塁・二重空堀(箱堀状と堀切)・曲輪の切岸角等にみる土留石・石積虎口状・長い帯曲輪の末端が堀切で遮断されていたり…等の城郭遺構が残る。
  西郭主曲輪:西面切岸の土留石
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「丹波志」古城の部:榎原村に二城あり、城名記載は無いが榎原氏代々の居城を榎原城・滝山城と城名を記されているが内容一切空白は、現在の瀧山観瀧寺とは府道を挟んだ西に位置するヒエガ谷城を瀧山城と解していたが・・・「丹波志」寺院の部の観瀧寺の項には”滝山城の脇に観瀧寺があった…”とある。
  西郭西に延びる曲輪間の土塁道
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観瀧寺のあった山が千の滝が掛かる瀧山であり、法道仙人が鉦鼓の音を聞き分け入り開創した観瀧寺のや前を鉦鼓山とも呼ばれている。弘法大師も巡錫を伝える名刹は、瀧山の峰に展開する広大な山岳寺院ではあるが、榎原谷(府道109号)を挟んで榎原城と正対して呼応する位置にあり、寺院としては最高所の東側一帯が本殿側・堀切と空堀で二重に区分された西側一帯は寺院が城郭化され、更には山城として改修された滝山城として考えてみたい。
  西郭主曲輪から東へ延びる大土塁道
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西郭部の西先端には尾根幅一杯に、露岩混じりを切り崩して造成された幅約5x4mの一文字土塁は櫓台として・土壇は拝師郷・和久郷諸城へ「知らせ」の狼煙台・西下の小曲輪は狼煙用各種用材(煙の量や色を調整するため?)の確保・保管した曲輪とも考えてみます。 高所ではなく尾根先だが平坦尾根の先は遠目にも目立とく有効!!。
 大土塁道の東先端は土塁櫓台・箱堀(右下に帯曲輪)
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滝山城は城史一切不明・市遺跡としても未確認だが、榎原氏の城とも思えず、観瀧寺が僧兵を擁する大寺院だったかも不詳。天正13年(1585)兵火により焼亡との契機も不明だが、前年12年羽柴秀吉VS徳川家康間で起こった”小牧・長久手の戦い”に関連あるのかも?。家康方に付いて丹波市側では赤井氏ら一揆衆が黒井城・余田城に呼応して籠もった。
 東郭・西郭部を分ける堀切(西郭側土塁から)と削り残し土塁?
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秀吉方が勝利し淀城等を守備していた小野木重勝が、其の功によるものか?翌:天正13年 福知山城主として入部している。:小野木氏によって織田信雄や家康に付いていた領内の一揆衆探索による報復だったか?。滝山城についての詳細は京都府や市の専門機関による発掘・縄張り調査・古文書等調査研究が進められることに期待したいものです。

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この記事へのコメント

べーさん
2016年06月09日 21:27
レポートお疲れさまでした。こうしてみると先月のことながらラジオを聴きつつ探索と簡易図面を描いていた時のことが懐かしく感じられます(笑)中世観瀧寺跡の伝承は奥榎原の古老に良く伝えられていているので間違いないのでしょうが、多くの中世寺院特に近江に見られるような城砦化した寺院と同じ形だったのでしょう。それも廃寺になってから城として再利用されたのではなく現役の寺院の時に。でないと天正13年に兵火で全山焼失という記述に矛盾が生じますし。(その言い伝えが本当だと仮定して)ちなみにこの中世観瀧寺跡から伸びる尾根上にも子院があったように思える気になる箇所が2か所あり、古老の言い伝えにもそういった話がありますので再度機会を見て探索しようかと思っています。あと、一応退職されましたが昨年度まで文化財担当だった知り合いの方を通じて現在の文化財担当の方に話を通してもらうことになりましたが、まだ返事はありませんね。
2016年06月10日 09:54
”べーさん”の縄張り図参考になり、ありがとうございました。表面観察で凡そ遺構が確認されても、土地開発の手が入ってやっと調査の手が入り、大きな成果があっても消滅する城山城 http://tanbakiri.web.fc2.com/HARIMAakitani-minamiyama-docu.htm#siroyama の様な例はおおく、殆ど調査もされないまま消滅してゆく番守寺山城http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAtateisi-docu.htm#kamori の様な例も更に多いのでは?。
文化財調査は専門業者?に依頼確認される事がおおいのかも?。西倉城<仮称>http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAkuzuoyma-siro-docu.htm#nisikura も旧古墳の存在遺構が発見出来なかったと報告されているだけですが、古墳はなくても素人の私が確認できた其の古墳墳頂部が主郭・土橋付き空掘を廻し堀切・竪堀跡まで残るが、此処に限らず遺構未調査箇所は枚挙に暇がない程ですね。
土塁道は同盟する複数勢力が曲輪を分けて存在し、その曲輪内通行を避けるためのものともおもえましたが!!。すぐ側に水源(枯渇が少なそうな?谷水)が確保されているのは山岳寺院に限らず逗留・参籠に好都合ですね。榎原神社背後・丘陵先端付近は榎原氏の奥津城と思えますが、寺院関連の中世墓や尼寺のあった可能性の高い場所に思えます。

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