熊本城 (Paper Craft)

熊本城< (Paper Craft)熊本市中央区本丸>のページデザインが徳川家・葵紋・江戸城なので、豊臣恩顧:最後まで家康に抗した清正の城に相応しくはないと思ったが…、江戸時代:細川氏が藩主となった後も増築・改修されているので「よし」としますね!!。国特別史跡で、名古屋城姫路城or大坂城?ともに日本三大名城の一つに数えられています。地形を巧みに利用した高度な築城技術で知られ殊に”扇の勾配”と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は、敵兵が城壁に簡単に取付いても上部になるにつれ急激に反っていく[武者返し]構造のため登り切れない。滋賀坂本の石積み技術集団:穴太衆は熊本城にも百間石垣を突き立てた穴太役:原田某がいたが清正の勘気を受け浪人していたのを、細川氏が探し出し召し抱えたと云い、どこの大名にも属さない特殊技術者の石垣師は優遇されている。
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1960年に再建され平成19年(2007)築城400年を迎えた熊本城だったが、平成28年(2016)4月の熊本地震の際に石垣・櫓・天守閣に甚大な被害を受け、重要文化財指定されている櫓や門13の建築物全てで深刻な被害が出ており、未だ立入り規制の箇所は多いようで、石垣の撤去・積み直し等作業だけでも総修復費用に約354億円を要すると試算されています。城はあらためて人々の誇りであり心の拠り所・広大な城内は県内外の人々の交流の場として、また強い復興・再建の意識を呼び醒ますところ。年を重ねても以前の素晴らしく・美しく堅固な熊本城姿が、清正の甲冑に用いられた蛇の目紋と江戸時代藩主細川家の九曜紋の定紋を染め抜く陣幕が再び小天守側渡り櫓の入城口!?や木戸門に蘇る日を待ちつつ…。  
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熊本城は茶臼山一帯の丘陵部に存在していた中世の古城(肥後守護:菊池氏の代官:出田氏の千葉城/鹿子木氏に代わると要衝の地に隅本城)を築いて移っている。秀吉が豊臣姓を名乗る天正15年(1587):九州平定に軍功のあった佐々成政が肥後一国の領主として入国するが、太閤地検に反発する国衆一揆に其の責めを受け切腹。翌1588年:肥後の北半国を与えられた加藤清正が隅本城に入城。清正により中世城郭を取り込んでの大規模な熊本城築城(通説では慶長6年から僅か7年<1601-07>)の歳月を掛けて【慶長4年銘の瓦が出土しているとも…】改築したとされる梯郭式平山城。
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大小二つの天守をもつ複合天守閣で、小天守は石垣の構造等から大天守の後に増築・秀吉恩顧の清正にとって、豊臣家有事の際には豊臣秀頼を熊本に迎えるため、付書院・対面所や控えの間・衣冠を整える装束の間として使える部屋を備えて「お成り」にも充分に耐えうる構造。西国大名を率いて徳川に対抗するための築いた巨大要塞で、籠城戦に備えて食料確保のために植えられた云われる?銀杏の木から別名[銀杏城]とも呼ばれる。しかし銀杏は雄木なので実はならない…。
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また小天守・大天守閣は明治の西南戦争の時に消失したと…?此れも西南戦争開戦3日前の明治10年(1877)2月19日原因不明の出火により全焼。「時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため」と、司令長官が参謀に命じて火をかけさせたとの説が有力とされている。幾つものエピソードを残す名城「熊本城」の再建・復元・復興は熊本県民の歌<熊本県の項を参照してください>[あゝ火の国の空の若さよ]の歌詞の冒頭は…♪大阿蘇の 煙絶えせず 銀杏城 高く聳ゆる…と謳われるだけに、県民・市民にとっての悲願:待ち遠しいが、自身が見に行けるかどうかは二の次…
【熊本城公式・Wikipedia・築城の先駆者[穴太衆]資料を参照   熊本城 (Paper Craft)のスケール 1/230 A4 13枚 部品数130】

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