善防山城 加西市

播磨には播磨アルプス(高御位山-桶居山)、義経が丹波から一の谷へ駆け抜けた三草山や加東アルプスと呼称したい山々、小野アルプス(紅山-惣山)加西アルプス等々、低山ながら岩盤・岩尾根を連ねる山々が多く、松茸山の止め山で11月中まで入山できない丹波の山へは殊に里山に在る山城の散策も出来ず、絶好の時期なのに、登山や訪城案内ができないのは惜しい。  
   東郭(第二ピーク)の石積
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先のブログ紹介の加西アルプスの善防山には善防山城があったことを紹介していたが、元々は此の山城の訪城が主目的で、再訪するのに期間が長く空いてしまい、現状と古い画像を差し替えるつもり。体力の衰えも考えず…いくつかの山城を梯子してからの善防山城なので、本来見過ごした主郭からの北枝尾根に入りたかったが、荊棘・藪尾根なので今回も残念。
 
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時期を待って加西アルプス中の、余り登山者を見ないが馬の背・や未だ未訪のふるさと富士【長(おさ)富士】も狙ってみたい。標高こそ低いが四方を峻険な岩山に囲まれた要害にあり、在地領主の城砦にしては離れ過ぎているかも…?。詰め城にしても山麓に城主の居館がないことも…。
   主郭東面切岸と帯曲輪?
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善防山城は室町時代初期・応永年間(1394~1428)赤松義則の八男則繁満祐とは兄弟)が築城。嘉吉の乱(1441)には満祐に従って城ノ山城に入り全体の指揮をとっていたらしい?。則繁は満祐ともに乱の以前は京都にいる事が多く、嘉吉の乱により城主のいない善防山城に残った僅かな留守部隊も火攻めによって山名軍に簡単に破られ落ちたとも云う?。
  主郭西末端の腰曲輪と主郭の切岸
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善防山城主郭(善防山山頂)側には 「○○歴史山の会」による簡単な城址説明板が掛かる。赤松討伐の幕府方(山名・細川)軍勢に取り囲まれ、城に残った留守兵等は「竹の皮」を敷き詰め応戦したという。敵は滑って攻められないと思われたが、その竹の皮に火を放たれ・為城はにあっけなく落ちたという。全国にのこる”竹の皮”落城伝説と、明治初期まで白骨体が木の葉の下に眠っていたとも云う?。野晒し遺骨が550年以上も其のまま風化せず残っていたことに驚き!!?…ですね
   主郭からの縦走路:土橋付堀切
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嘉吉の乱以降の善防城についての城史は不明です。市発足10年にしてやっと発汗された市史の内容が市長史のような○市と違い、熱心に市史を随時改定・加筆されている加西市史にも(最近発刊内容は知らないが…)その存在を否定されてきた>牛居城(牛居構居)がある。善防山城を詰め城とする城主の居館がないというが、留守がちの城主に代わって赤松一族 の臣:中村牛居之祐…が代官・城代家老として善防山城を預かっていた…とも考えます。
  土橋の先にも巨岩周囲を削平した西郭が!!
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中村氏も嘉吉の乱後は帰農していたが赤松家再興により牛居城も再建され戻っています。善防城が其後再利用されたか?、まして此処を舞台の合戦があったかも不詳ですが、縄張りに改修された形跡があれば、加西市内には三木城別所氏や其の幕下 浦上氏の山下城もある。小谷城の築城目的からも在田氏の可能性は薄い。在地領主の城とするには立地から遠すぎる。播磨攻略・三木城落城後の秀吉軍にしても、改修のない物見砦程度ならともかく、縄張りから織豊系の特徴は見られない様?。主郭北尾根筋や山麓…等未だまだ 未調査範囲もありそうで今後の更なる資料や城址研究成果に期待したいところです。

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