綾部陣屋(前期) 綾部市

綾部陣屋(後期)は綾部市図書館の南…西福院の東側:府道709号を挟んで建つ「せんだん苑南保育園」の県道側石垣上の小クリート保護壁に綾部城”大手門跡”の標識が架かり、東隣りの綾部幼稚園…綾部小学校(主郭部:陣屋なら本殿なり書院が建つ政所か?)北門附近へと、北斜面に高い崖状切岸が続く。
 後期綾部陣屋(幼稚園;保育所北斜面)
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後期綾部陣屋ではなく綾部城として・まして九鬼氏関連の研究会による城址説明(現在は無いが!?)では何か間違いなり・誤解が生じそう!!。江田氏の綾部城・江田氏再建の綾部城・九鬼氏の綾部藩成立時の初期綾部藩陣屋・九鬼氏が再築した後期綾部藩を、一括(ひとくく)りに現在地を綾部城とするには、説明も付けにくいのでは…?。
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旧街道筋から大本教綾部本部に在った”綾部城”へ向かう大手門だったのか?。三田藩九鬼氏家紋は七曜か左三つ巴だが、九曜紋が定紋の様。大本教の宗紋(神紋)とも極似しているので何らか関係ありそうに思えたが、大本教は十曜紋(時期不詳だが当初は9曜だったらしいが10曜になったのも明治期になってからか?)、 
  後期綾部陣屋(県道側の「大手門跡」標識
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綾部藩の九鬼家は上の画像の様な「左三つ巴紋」が使用されているようですね!?。 綾部城は由良川に突きだす台地上の現:大本教長生殿を本丸?として綾部小学校敷地一帯に永禄8年(1565)頃:江田行範が築城したが、失火焼亡して現:綾部陣屋(後期)に再築して移った。
  江田氏創建の綾部城が在った大本教綾部本部・主郭側?長生殿ではなく弥勒殿
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江田行範居城としての綾部城も、天正7(1579)羽柴秀長によって開城され城主:江田氏は八上城で討死した。丹波攻略後は明智光秀の持城ともなったが、徳川期の藩制となり別所吉治(丹波市氷上町北油良の居館があった・三木城主別所長治の叔父で、秀吉方に付いた別所重棟の子)の後:九鬼家が綾部に移った禄高からも織田家の丹波柏原藩陣屋同様、城は持てなかった。
  綾部城や後期綾部陣屋の城域だった?綾部小学校北玄関前
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地元では城として・また城下としての形成からも城と呼ばれてきたのでしょうか?。中世末期までの綾部城も:藩政時代に入ってからは綾部陣屋、まして保育所/幼稚園敷地の後期綾部陣屋を、現地説明も・多くのwebにUPの内容も殆どは城名で表示されている。江田氏の頃は城だが、九鬼氏入封からは陣屋と呼ぶほうが…!!。城の時も陣屋となった後も失火により・夫々に場所を変えて再建されているので、ややこしくなっているのか?。
  前期綾部陣屋:熊野新宮(左手奥に綾高)
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寛永9年(1632)鳥羽藩九鬼氏の家督相続争いに翌・久隆は3万6千石で摂津国三田藩・隆季は2万石で綾部に移封され寛永12年(1635年)綾部陣屋を造営し、綾部藩が成立したが現在の綾部高校(東分校)-熊野新宮附近。綾部陣屋(前期)は府道8号・府道77号(川糸交差点)近くの綾部高校東分校-熊野新宮附近に位置しているが遺構は見当たらない?。
  初期綾部陣屋:辻の地藏堂 北に陣屋・南(右)市役所附近が武家屋敷跡?
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城址碑が立てられていたかは知らないが、熊野新宮神域南から西面に僅かな高低差や新宮神社東側にxx下市場…高校校舎附近には堀ノ内・古屋敷・市場・番取…等の字名が残り、由良川の側溝や高い土手に、雰囲気だけは感じられる。陣屋は慶安3年(1650)火災により焼失した為、幕府の許可を得て翌年:上野台に城地を移して再興されたのが現:綾部陣屋(後期)の「せんだん苑南保育園-綾部幼稚園-綾部小学校附近。綾部九鬼家は以後:19500石大名として廃藩置県の明治まで続いた。

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