柏原八幡・弁天社の伝説 Ⅱ 丹波市

以前のブログ:伝説:柏原八幡の弁天社 Ⅰ<2013.03.02>の続きです。柏原八幡神社の参道は木の根橋・観光案内所のある南山麓の神馬像の立つ鳥居からだが、西北に柏原稲荷社の鳥居側にある小さな池の中に祀られる弁天社から、八幡社三重塔へ続く参道もある。この三重塔の建つ八幡山(入船山)の背後から高八山~清水山を経て向山連山へと北尾根が延びていく。この尾根続きにも…
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古くは南朝方荻野氏の八幡山砦…黒井城塞群の砦があったところ。丹波黒井城攻略拠点として明智方陣城(八幡山城<(加伊原新城)>)”を築き、天正7年 (1579)高見城主:赤井忠家が僅か200余りの城兵を残して黒井城へ応援に出た留守中を、明智十郎左衛門・藤田伝吾・四方田政孝等1200の兵で攻めたてた。城兵は城を出て山中に散り、松明を目標に抵抗・その時・陣幕の中にあった光秀の傍らにウナリを立てて矢が突き刺さった。
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矢尻に”土屋”と入れてあり、矢匠:土屋邸に追っ手を向け家族全員を捕らる。しかも土屋の娘は高見山城主の奥方。八幡神社下の池の畔で”火あぶり”の刑に処せられ御用商人・土屋家は絶えてしまいます。ところが其の後・八幡社の付近に夜毎、呻き声や怪しげな火の玉が出るとの噂が立ち、人々が池の真ん中に弁才天を祀り供養したところ亡霊は出なくなったと云う。
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矢匠土屋家の無念の霊は明智に祟って、一矢を酬いる事は出来たのでしょうか?明治の初めに池は埋め立てられ、現在の位置に移され・詣る人も花を手向ける人もない弁天社は、やはり振り返え見られる事も無く、境内の最西北隅にヒッソリと日暮れも近い薄日のなかに佇んでいる。柏原八幡の弁天社Ⅰに記した”門家さん”が「四方田政孝の門」とも呼ばれ、茅葺き門は無くなり宅地も新築された家が土谷(土屋)さん…!!
  柏原町志(昭和30年) /文化財散歩(町内 昭和45年) /緒を尋ねて 丹波新聞社版 昭和30年参照
明智光秀の重臣:四方田政孝は光秀が天正3年・丹波に入ると光秀に仕え、天正6年の八上城攻め・鬼ヶ城攻めに参軍の頃か?一時期福知山城代を務め天正7年、佐治川辺に陣して(萱刈坂~母坪に至る低丘陵部か?)高見城を攻め落し、天正10年の本能寺の変・次いで織田信忠を二条城に攻めているが、光秀が小栗栖に?討たれた際は既に斃れていた…と云う。「柏原町志 人物編参照」

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