太田氏屋敷 丹波市
丹波市山南町の久下小学校校歌にも謳われる東山(鍋倉山)は篠山川に架かる山崎橋付近からは綺麗な山容を見せている。山頂部に主郭を置き堀切・石積みを見せ、一帯に曲輪群等の城址遺構を残す鍋倉城(太田城)跡です。
天正7年織田信長の丹波攻略では玉巻城の久下氏配下にあったものか?。城史は不明だが久下氏に呼応する太田美濃守(大和守)とも・片瀬近江守が居城したとも云う?が…城攻以前・此の戦乱の余波で落城したとされる。
石垣は後世改修と思えるが上段は畑地には幅狭い2-3段曲輪状!!?此の鍋倉城北尾根筋・採石場側を山麓に降り立つと県道77号が走る。77号は途中から大河地区へと北へ折れるが、直進して約200m右折する車道が太田地区の集落内を抜ける。現在は向かう愛宕山トンネルを抜けて(一部工事未着手だが)JR下滝駅近くで県道77号に合流するバイパス道。
現状の県道77号篠山川沿いの要衝(延喜式の旧山陰道)と東播磨を結ぶ十字路となる太田橋付近からは東に西山城・西に大河城が太田の南山上には鍋倉城(東山城)が呼応し、間道(播磨道)と要衝の監視警護に付いていたのでしょう。
屋敷跡へは濠ともなる中谷川を渡る大田集落内の慧日寺分岐の左前方の丘陵が地区の鎮守を祀る愛宕山。トンネルを抜けるバイパス道により集落内を抜ける車はなくなった?が丘陵西裾部に太田氏屋敷があり「トノカイチ」<殿垣内>の小字名が残る。
また東の山上に大田大和守の城があった…と?。位置的には鍋倉城(東山城)ではなく、恵日寺背山から東北への丘陵尾根・山名学所(425m)付近とも思うが未確認。太田地区に片瀬姓が・大河地区には太田姓が…!!?あり片瀬氏屋敷では…?とも思える。
屋敷前に拡がる圃場は家臣屋敷群跡か…!!?明智光秀の丹波攻めが始まる天正3年(1575)~7年には鍋倉城の大手口と思われる西面の常勝寺や、搦め手と思える北面・太田氏屋敷側の慧日寺も兵火に焼亡します。太田氏屋敷が豪農・豪商・在地領主か代官屋敷なのか、xxx?城主の居館であったか…等は不明。
天正7年織田信長の丹波攻略では玉巻城の久下氏配下にあったものか?。城史は不明だが久下氏に呼応する太田美濃守(大和守)とも・片瀬近江守が居城したとも云う?が…城攻以前・此の戦乱の余波で落城したとされる。
石垣は後世改修と思えるが上段は畑地には幅狭い2-3段曲輪状!!?此の鍋倉城北尾根筋・採石場側を山麓に降り立つと県道77号が走る。77号は途中から大河地区へと北へ折れるが、直進して約200m右折する車道が太田地区の集落内を抜ける。現在は向かう愛宕山トンネルを抜けて(一部工事未着手だが)JR下滝駅近くで県道77号に合流するバイパス道。
現状の県道77号篠山川沿いの要衝(延喜式の旧山陰道)と東播磨を結ぶ十字路となる太田橋付近からは東に西山城・西に大河城が太田の南山上には鍋倉城(東山城)が呼応し、間道(播磨道)と要衝の監視警護に付いていたのでしょう。
屋敷跡へは濠ともなる中谷川を渡る大田集落内の慧日寺分岐の左前方の丘陵が地区の鎮守を祀る愛宕山。トンネルを抜けるバイパス道により集落内を抜ける車はなくなった?が丘陵西裾部に太田氏屋敷があり「トノカイチ」<殿垣内>の小字名が残る。
また東の山上に大田大和守の城があった…と?。位置的には鍋倉城(東山城)ではなく、恵日寺背山から東北への丘陵尾根・山名学所(425m)付近とも思うが未確認。太田地区に片瀬姓が・大河地区には太田姓が…!!?あり片瀬氏屋敷では…?とも思える。
屋敷前に拡がる圃場は家臣屋敷群跡か…!!?明智光秀の丹波攻めが始まる天正3年(1575)~7年には鍋倉城の大手口と思われる西面の常勝寺や、搦め手と思える北面・太田氏屋敷側の慧日寺も兵火に焼亡します。太田氏屋敷が豪農・豪商・在地領主か代官屋敷なのか、xxx?城主の居館であったか…等は不明。
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