石龕寺1 奥の院-頭光獄

丹波「もみじ三山」及び「山南三山」の名刹:岩屋山石龕寺<高野山真言宗>には数々の文化財史跡・モミジの名所だが銘木や足利尊氏父子関連や、石龕寺開基の厩戸皇子(聖徳太子)に関る伝承等々がのこる。 注:聖徳太子は亡くなった後の賜号だが判るように太子の名を表記する 
  頭光獄から岩屋山・石戸山
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蘇我氏・物部氏の抗争が続いていた。用明天皇(586?-587)の第二皇子:厩戸皇子(聖徳太子)が物部守屋を征伐したとき《以下毘沙門像についての伝承解釈・内容が微妙に?異なる部もあるが…》、
  頭光獄は石龕城の南出曲輪か?(稜上の堀切土橋?と曲輪?)
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   頭光獄の堀切と上土塁?周辺は南にかけ曲輪?あり
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自ら毘沙門天尊像を刻んで兜に携え(四天王像を彫り勝利祈願し頭髪の中に収め)出陣した。四天王の一:多聞天=毘沙門天=蘇我氏の守護神)   
    旧石龕寺本堂の石窟
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抗争終息後:不思議にも毘沙門像は何処かへ飛び去ってしまい、厩戸皇子は尊像の行方を国中探し求めて丹波市山南町境接する篠山市・西脇市境界の山稜(ササバ-机峠の名がある…
  岩窟内に毘沙門天を祀る
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(ササバ<楽々庭>は=祭祀を執り行う庭? 其処を下った鞍部に机峠の名もある)での事か?!!。北方の山々の頂(岩屋山付近)より光が放たれ、虹のようにたなびき、不思議な香りがしてきた。此の奇瑞に太子は不思議な光と香りを追い・瑞雲の起こるところを求め、
  将軍屋敷(足利義詮が3ヶ月余り此処に逗留)
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其の山中の石窟に導かれ、安置された毘沙門天像を発見された云われ、此の山を頭せんが嶽(頭閃嶽?、頭光獄)と名付け、岩屋山石龕寺を創建され尊像を安置されたのが、石龕寺のおこり。
  岩窟・将軍屋敷跡の奥の院鐘楼前からは明石海峡が望まれることも!!

  
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鎌倉時代から室町時代に隆盛を極める。寺号「」は仏像などを安置する厨子や壁面の窪みを意味するが、本堂から山上約800mに奥の院があり、その石窟が石龕寺の由来となっている。山門の金剛力士像(仁王像)は、慶派の「肥後法橋定慶」により1242年(仁治3年)造立された国の重要文化財指定。
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この記事へのコメント

小次郎
2018年04月23日 20:07
大変長らくご無沙汰しています。小次郎(大山地頭後胤)です。
もう14年ほど前ですが、息子が大学生の時に石龕寺へ連れてゆき
ました。昨日柏原小南にお住いの一族(430年ほど前の同族子孫)を
お訪ねして、石龕寺の話をしておりました。
小南に神奈備山(小南山)があります。私の感なのですが、ここは中世大山城
の出城だったと思っておりました。
昨日息子に登らせて、堀切をらしきものがあれば写真に撮影するよ指示して
おきました処、幾つか怪しいものを撮影してまいりました。
山頂は平地化されており、郭があったと推定できるようです。
ただ、戦時中にここに軍が見張り所を作り、高射砲を据えていたそうですので
手が加わっているでしょうが、おついでの折にでも一度お訪ね頂ければ幸いです。

なお、以前のサイトは少々思うことがあり閉鎖しましたが、最近「小次郎日録」と題して、駄文を書いていますので、お暇なときにでもお訪ねください。
メールフォームを作ってありますので、ご連絡はそこからお願い致します。

一院谷の小屋ケ城については、相変わらずあのころから知識が増えていません。
私はもう山歩きはできません。(^^:)
2018年04月24日 09:12
小次郎様  
其の節には 大山荘の中澤氏について ご教示賜りまして有難う御座いました。以來 もう15-6年になりますかね?  … 
私はもう山歩きはできません。(^^:)  いえいえ年齢なら私とは殆ど差も無く また多方面に活躍されている様で我が身に鞭当て…の思いです。
以下 参考になりますれば…
  小南山南裾から西へ抜ける道は旧但馬・山陰道
 おさん茂兵衛ゆかり おさんの森や明智光秀「諭しの山の茶臼山砦)があります。また小南山麓は織田と丹波勢の合戦場ともなったところ。明智本陣の八幡城が東に鼻の先。
小南山城→ http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAkominami-bounooku-docu.htm#kominami

大山荘内の一印谷城 小規模な曲輪と堀切以外施設なく また団結力のあった一印谷村人の逃げの城だったと推察します 
一印谷城 http://kirinosato.fc2web.com/TANBAhagaoyama.htm#itii
同ページ内の 長安寺館(中澤氏屋敷)についても歴史的背景を知りたいところです

長澤(中沢)氏とは同族と思われる長澤義臣の
小山城(五合山城) 南丹市園部町→ http://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTO-sonobe-siro-docu.htm#oomura
も同様です。
京丹波町の山城には消化不良で終わっている八田城(籾井氏?)や もっと知りたい井尻城 道路工事で調査された山内氏の三宮(東)城…等 いまどうなっているのか山城巡り 再開したいところですが…山歩きは 思いとは裏腹にご同様です
コメント ありがとうございました
おいおい 新サイトへお訪ねいたします
小次郎
2018年04月24日 16:47
早速お返事頂きありがとうございました。
お互いに寄る年波には勝てませんね。一昨日大山の江戸期の中澤氏菩提寺へ詣で、這うようにして墓所まで登り切りましたが、しばらく身動きできませんでした。もう今年が墓所まで登るのの最後にすることとして、息子に跡を託しました。
どうしてこんな山の上に墓所を作ったのかと思いますが、篠山城建設の為、大山城や菩提寺長安寺の石、墓石等はことごとく挑発されたことを考えると、墓所を隠したのも想像に難くありません。

小南山はすでに踏査済だったんですね。検索すればよかったのにと、今更ながら後悔しております。チトボケが出てきたのかも・・・(笑)
園部の小山については、一族の先人から聞き及んでいますが、大山との関係は見いだせていません。
ただ、船井郡吉富庄については、少々怪しい偽系図に地頭職を持っていたとありますが、これは信用し難いです。八木広瀬には質権の地として一族の所領になった場所があったようです。(幕府の史料あり)桑田・船井両郡の土豪達は鎌倉期より大山中澤の影響を受けていたようで、「弓射連中」の由緒書きに弓の故実を探るため、別院長澤(中澤)氏の奥義を盗みにいった記載してあります。
尤も、これも江戸初期に書かれたものですので、室町期の名前などいい加減ですが、凡そのことは判ります。
小次郎
2018年04月24日 16:47
江戸中期頃より中澤・長澤の混用があり、何方が大山城主だったとか、在地では未だに蟠りがあるようですが、これも10年ほど前に原因となったものを解明できています。
いらぬ波風を立てたくありませんので、ネットに公開は致しておりません。A4で40枚になってしまいました。

大山の一族とは400年近く交流を続けております。拙家は在地に一族が残ってくれていると感謝し、在地では武士として鎌倉以来の名誉を保ってくれている大事にして下さり、長年のうちに何度か交流が途絶えかけたことがありましたが、不思議な縁で復活したりして未だに大山へ訪れることが出来るのは、有難いことです。
一昨日は柏原小南では米やお茶・冷凍しておかれた栗などを頂き、大山では朝堀のタケノコを頂き、感謝感謝です。

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