段宿城Ⅱ<仮称> 丹波市

丹波志の古城部の加茂郷上竹田村宿に記述の城館がトレースしてみて段宿城<仮称>と思えるが、郷土史誌や県・市の埋蔵文化財分布調査書…等に記述をみない?。先のブログ(プロローグ)に記したが、余田谷への通行監視等を意識した領主の城の縄張りではなく、天正2年黒井城主荻野直正との戦いに敗れ軍門に降りた余田氏が信頼を得て翌天正3年頃には黒井城重臣となっている。余田城の最後は天正6年で余田左馬頭(為家)は嫡男余田半兵衛を黒井城に入れ、城兵の多くが半兵衛に従い龍ヶ鼻砦の守備に付き、余田城には左馬頭が篭るが孤立無援で落城する。
  亥之神社郭の切岸を望み・右方の下段主郭の愛宕社へ
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段宿城<仮称>は位置からして:福知山市境の塩津峠と、山陰道(R9号)六人部方面(県道708号)からの侵攻を意識して築かれた監視砦。天正3年:明智光秀の丹波攻略第一回攻撃が始った頃。段宿城に丹波勢(守将として余田氏等)が詰めていたか?…等城史一切は不明。明智勢総攻撃に黒井城から討って出る荻野・赤井の軍勢に呼応して、明智方に付いていた波多野秀治(八上城主)の明智勢挟み撃ち”赤井の呼び込み軍法”に圧勝したのが翌天正4年1月のこと。波多野秀治が反撃の軍勢を整え出撃の準備をしていた陣が普應山十方寺【曹洞宗 石像寺末】と云われ、第二回攻撃(天正6年)の際には寺を焼かれている。
  猪鹿除ゲート直ぐに現れる段宿城下段曲輪の切岸と堀切土塁
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丹波志【篠山藩士:永戸貞著の桑田・船井・多紀三郡のうち多紀郡と福知山藩士:古川茂正の天田・氷上、其の子古川正路による何鹿郡】と氷上郡誌(昭和47版)に、段宿城<仮称>に該当の城砦は見当たらない。前山の東部上竹田に:古くは十市・八日市・段・宿・宮ノ下・今中・十方寺・片瀬等10部落ある。現在・段宿の段と宿がどこなのか不詳ですが…加茂神社(加茂別雷命)に合祀されている神々には片瀬にあった八幡神社(譽田別命)…宿にあった厄神社(大綾津日命)・にあった新宮神社(建須佐男命)・十市にあった興婦田神社(月夜見命)は農耕の神で、本地仏を虚空蔵と称していた。
  段宿城下段愛宕郭北尾根から塩津峠への街道を望む
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廃寺となった虚空庵(虚空蔵 曹洞宗 石像寺末)は居館跡?だったか。宿と片瀬には城趾が在ったとあり、片瀬には城主形瀬氏屋敷があり亀ヶ城とも呼ばれた…と。丹波志・氷上郡誌に記載はあっても市(旧氷上郡)の文化財分布調査報告書等には空白地帯?。長い丘陵尾根沿いに築かれた段宿城<仮称>遺構は途中に150m程の緩衝帯?を挟んで上城(十方寺背後の三角点峰)があり、下城(加茂神社から愛宕社を祀る祠まで)の分けて報告したい。
 下段愛宕郭からの緩斜な北尾根上の長い3段程の荒削りな曲輪段?
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なをには玉巻城主「久下時重の子孫住めり 重治 明智攻めに滅び此の地に逃れ…」とある。天正7年明智「第三回丹波攻め」の落城に際し妻子は乳母の里に匿われる。詳細!?は丹波のお話「前山の手向け塚」を参照してください。
  段宿城上城

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