穂壷城落城 丹波

先のブログで明智光秀の丹波黒井城攻略第一回攻撃(天正3年 1575)での“葦原明神”のはなし・天正7年(1579)黒井城落城悲話”子育て地蔵”…に続いて、第三回目の攻撃(天正7年・荻野直正は前年:既に死去し、弟の赤井幸家が城代として指揮していた)の際、
  主郭南端曲輪から南1段曲輪の切岸
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明智勢の夜襲に落城した穂壷城【ブログのおわりにも”稲継壱岐守は笛の名手であった”ことを記しているので】のそのお話を…追記します。
天正7年5月頃・攝津播磨側からの明智の援軍として侵攻した丹羽長秀ら連合軍の攻撃に、氷上南部の諸城(久下城・石龕寺城等)は落城。
  穂壷城南端大竪堀下部・池と土橋の先に拡がる居館部?
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8月15日には播磨三木城攻め羽柴秀吉の援軍を得た明智軍は、北上する連合軍により一挙に侵攻を速めて穂壷城を包囲され、…明智光秀軍の細川藤孝・忠興父子に攻められ落城します。
…最早・城もこれまで…と
   穂壷城南端上方から見る大竪堀の一
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夜の静寂(しじま)の中に聞こえてくる笛の音に、其の余韻は澄みきって、穂壷城を遠巻きし攻め立てる明智方の軍勢も暫し攻撃の手を緩めて聞き惚れる。「戦国の世に珍しい風流なやつもいるもの…心にくいのう」 「もの淋しい心地がし 望郷の念に駆られるわい」…
 穂壷城主郭部南端:櫓台土塁の下方には二条の大竪堀と三段曲輪…
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笛の名手であった稲継壱岐守は心静かに「松風」の一曲を今生の思いを込めて吹きなす・丹波武士のたしなみ。明智勢が急遽夜襲をかけてきたのは其の翌晩のこと。頼みの城も大勢の前には・一押しに足らぬ小高い山の出城は遂に落城する。穂壷城域北末端曲輪にあった祠(撤去されていた)は城主:稲継壱岐守を祀る社だったか?
  主郭から北へ長く延びる数段の曲輪群
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城主・稲継壱岐守はこの折討死にしたとも、弟:左門と共に市島町上牧に落ち、後に兄弟は福知山城主:有馬玄番頭に仕え、子孫は筑後久留米にいるともいわれます。織田信長の天下布武”丹波攻略”に遭い最後まで抵抗していた黒井城も8月19日落城して丹波国(京都丹波・兵庫丹波)は平定された。
 穂壷城南端(二本の大竪堀)付近? 穂壷城域に
 家臣団屋敷?や妙見砦を出曲輪として含めるかは?不詳


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