後藤又兵衛菩提の祝融山 多門寺

後藤基次(もとつぐ)…?も、通称後藤又兵衛なら知らない人の方が珍しい。同様に通称黒田官兵衛も「孝高や如水」ではどうだろう。秀吉の側近にあってキリシタン大名でもあった孝高。後藤又兵衛像は:黒田(孝高)官兵衛に仕えた「黒田八虎」ではなく、官兵衛(孝高)の嫡男:長政に仕えた主要武将「黒田24騎」屏風絵の像で知られる。
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大河ドラマ:軍師官兵衛では加西市所縁…でPRされた後藤又兵衛。春日山城(飯盛山)城主基信の弟:基国の子で出生地旧神東郡山田村。加西市境だが姫路市側の南山田城は又兵衛が播磨に戻った一時期居城している。慶長20年(1615)大坂夏の陣:河内道明寺の戦いに、
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真田幸村らの援軍到着が遅れる中・伊達政宗率いる鉄砲隊等、幾層倍もの多勢を相手に野戦を敢行して討死:享年56歳。翌:元和2年(1616)又兵衛三男:太郎正方(佐太郎)が父と兄を弔うため一周忌に合わせて尾崎村に菩提寺祝融山多門寺(曹洞宗:加西市尾崎町)を創建した。
  キリシタン(首なし)地蔵尊
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又兵衛の戒名「西照院殿夏安道蓮大居士」についての解説に:「西照(大坂から見て西方(播磨)で活躍)」・院号に更に法名「殿」を、「夏 道」(大坂夏の陣 道明寺合戦)と「安」らかに…との念(おも)いが込められている…とある。墓所へ向かう本堂西側参道に一体の首無し地蔵尊が祀られるが背中に十字を刻む。【多門寺案内説明板を参照】
   背面にくっきりと彫られている十字架だが画像では見辛い
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天正15年(1587)秀吉がキリシタン禁止・追放令を出したが、豊前に移った後もキリシタン黒田官兵衛の影響は家臣団にもあって、又兵衛がキリシタンだった時期があっても不思議ではない。それどころか「キリスト教を棄教した背教者…」と記される「イエズス会日本関係文書…?」からも又兵衛が一時期でもキリシタンだった事が窺えます。
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大坂夏の陣に又兵衛が討死:其の子や一族が逃れ移った足跡は丹波市・篠山市にものこる。丹波市「法泉寺」の再興した法嗣了撤和尚は又兵衛の子(二男か?)。真意はともかく形原松平家の後:青山忠朝(ただとも)が寛延元年(1748)篠山に移封の際:又兵衛子孫一族も篠山へ移ったと云い、篠山市西岡屋・大膳寺の北方には又兵衛の5代目・6代目墓があるとも…。
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多門寺参道本堂前庭の白砂には、左手に道明寺合戦には天候不順に遅れをとり援軍に間に合わなかった真田氏の鎮魂の「六文銭」か?、右には無限の平和・未来永劫に続く幸せの願う”青海波”の文様が描かれる。禅宗の寺なのでもっと深い意味合いがあるのかも…  
 

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