天通寺城<仮称> 篠山市

般若寺城は八上城攻略の明智光秀が八上城正面の篠山川沿いに包囲の陣城として築き、降伏を促し波多野秀治と対面した?場所とも云われる正覚寺の裏山にある。…が此の般若寺城とは半独立丘陵西の尾根続きに、
   正面:天通寺跡観音堂・右手は般若寺
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「天に通じる寺…」天通寺跡があった。いわゆる南蛮寺(キリシタン寺院)で、県遺跡分布地図(福住)には一帯の最高地点302m地点と、其の南側瘤(古墳?)西・東山麓三ヶ所の平坦地形(調査報告・資料…等を知らない)を指しているが往時の南蛮寺院構成等を不勉強でよく知らない…。
  観音堂
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はたして?:南麓に祀られる観音堂背後の登り口に真新しい”天通寺跡”案内説明板が立つ。「日本三大キリシタン寺院?」天通寺跡は県遺跡分布図の302m地点として「般若寺城~天通寺・天通寺下の観音堂等を含めたハイキングコース」が整備計画中らしい。
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天通寺はキリシタンだった前田茂勝が父:玄以の死去で家督を継ぎ慶長7年(1602)亀山より八上に移封。茂勝に仕えた奥村宗旦により慶長9年建立。キリシタンであった茂勝は江戸幕府に危険視されていた。発狂し家臣を切腹させる等で慶長13年(1608)改易させられている。
  辻の上古1号墳(盗掘穴)
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八上藩は茂勝の後:譜代大名の松平〔松井〕康重が入り、篠山藩に移行し藤井松平氏・形原松平氏の後・青山氏が維新まで続く。キリシタンに対しては天正15(1587)年:豊臣秀吉の宣教師追放令、慶長19年(1614)徳川家康のバテレン大追放令もあって、茂勝がいかに熱心な信者ではあっても天通寺を目立つ丘陵上に建てイエズスの旗を靡かせていたかは疑問。
  辻の上古墳群北の堀底状は峠越山道か?
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更には広い平地があっても結構長く急な登り尾根山上へ主従・民衆らが礼拝に訪れたものか?、和式?とはいえ礼拝堂内部の祭壇までは、荘厳なイメージ?からも・ある程度は堂内に距離は必要で大きな建物になったと思える?。八上城主波多野氏の家紋「丸に抜け十文字」のイメージからも以前よりキリシタン説はあった。
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八上城から見て「鬼門の方角・北東」にあたる般若寺が鬼門避けの天通寺跡であったか、西隣の観音堂であったかは知らない…「史跡を守る会」により設置された説明板に「観音堂の裏手・天通寺跡とされる場所に建てた…」とあり、山上にあったいいながら、矢張り此の観音堂こそ天通寺跡…と思える。   
 日久保古墳!!?(南面切岸3m・南下方に堀切・上部は広い曲輪だが?)
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場所・位置・広さ・さらに一段下を捲く曲輪の広さからも充分納得出来る。北方の大淵には隠れキリシタン伝承?のマリア観音(長徳寺)像が伝わるが、此処:観音堂もマリア観音堂だったのかも?。天通寺跡とされてきた山頂部が天通寺城<仮称>の主郭であれば、
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此処は:大渕の土居の内、波多野氏家臣:畑氏の八百里城の南玄関口にあたる。其の砦か、天通寺遺構とも思えない北面の腰曲輪は八上攻めの前哨戦・八百里城攻め向城か?。般若寺西方に位置する付城群の塚ノ山砦古墳のマウンドを曲輪にしている。天通寺に至る尾根上の古墳群を削平し曲輪に転用されたとしても…!!。
  城主郭:北下方の曲輪:寺院なら西・東殊に南側下に平地段が欲しいところ!?
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観音堂から登り始めて先ず盗掘跡を残す辻の上古1号墳・尾根筋北側の深い溝は東西集落や般若寺城への堀底道か?、日久保古墳も3m程の切岸、段築とあるが南手前の堀切状が周溝とも思えない。尾根左右の帯曲輪状も城遺構!!?。壊滅の野間砦?に代わり!!、旧丹波国の歴史を伝え語る篠山市として:天通寺跡や天通寺城<仮称>城砦遺構の確認含め一帯の再調査をお願いしたいところです。

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