蒲公英城(再訪) 神戸市北区

三田市から西宮・宝塚方面へとR176を南へ走ると、神戸市北区に入る県道357号分岐「宅原交差点」 直進するR176号は緩やかに左カーブ・続いて右へカーブする右手に雑木藪の覆われた小山が見える。神鉄道場駅東口?を出た正面に松原城(蒲公英城)の案内板が立つ丘が城趾で、
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有馬川と有野川が合流し武庫川に流れ出る道場川原は摂津・丹波・播磨国への交通が交錯する要衝として栄えていたが要害地でもある。只:城趾へは私有山地なので立入れなかったが、城趾に立っても身の丈程の笹藪の中。高い土塁上を歩いていることは実感出来るが・画像での表現が無理っぽい 
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ここ10年程?で藪は切り開かれ小規模ながら、有野川を外堀の水濠とした城域(東西約150m x 南北約100m程)の独立丘陵上に東郭・主郭・西郭の曲輪段を見せる古城が姿を現わしている。城趾の地権は個人私有地から神戸電鉄に移っているようで、北東角の家臣屋敷跡?付近・大手門から続く東郭の宅地等は撤去されていたが、遺跡調査やその後の造成・開発等計画は知らない。
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20数年ぶりに再訪し今回も主郭や西郭へも入ってみたかったが開発造成されている様。新興宅地側の西面:搦め手からも急な登城ルートとなる工事用道?が延びるが藪化して荒れている様。道場駅側へ廻り込むと南山麓側に供養塔が残されているので其処へは行ってみた。佐々城・道場川原城・草下部<日下部>城は、道場城・松原城・蒲公英城(タンポポ城)…と多くの別名を持つ。
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城域西側の宅地も現状はスッカリ開けた新興住宅地。城域東の有野川から長尾川沿いに進む街道は、宅原-長尾から吉川・三木方面への播磨道が通じる。有野川は吉尾から八多へ、有馬川も山口町から有馬温泉に至り、秀吉が通った湯山(有馬)街道でもある。摂津-丹波を結び、京街道・但馬街道にも繋がる大坂街道は丹波街道ともなる「道場川原宿」として賑わっていた。
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城史は長くなりそうなので掻い摘まんで…後醍醐天皇の建武の新政(1333)に離反した足利尊氏に付いた赤松一族だが、赤松氏範が天皇(南朝方)に付き摂津国・有馬郡・加古郡・印南郡・明石郡…に勢力を張っていたが、永徳3年(1383)京都を攻めた氏範は細川軍に追われ播磨>清水寺城に籠もるが敗れ一族郎党自刃した。嘉吉の乱(1441)に衰退した赤松家は、応仁の乱に赤松政則が播磨を再興すると、政則に従った松原貞基(満祐の弟・祐之の子)が軍功を挙げ蒲公英城を貰い後120年間:義貞・家久・家長・義富と続く。
 「道場川原宿」風情が残る愛宕神社側からの松原城
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天正6年(1578)秀吉の播磨攻め「三木城攻め」の際・三木城主別所長治が秀吉に叛すると、淡河城の淡河氏と婚姻関係にあった義富は別所氏に付くが、秀吉命の塩川・山崎・池田・中川等に攻められ城主義富以下討死?。大軍で城を囲んだ伝承は道場小唄(神戸市北区のラスト…)にあり、太閤飴(巻取り飴!?)の話も此処から。天正7年(1579)落城後は秀吉方・有馬氏の領有となった後廃城。
 有野川から松原城(最高所が主郭)
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城名は落城最後の城主名をとって松原城か、蒲公英城が体勢を占める様だ。たんぽぽは「つつみ草」とも呼ばれ、城主夫人(淡河弾正の娘)は鼓の名手で…ポンポンと鳴る鼓音から蒲公英城と呼ばれたという通称が一般的!!?の様。流れ落ちる瀬音が鼓音に似ているとも云う。少将山城(篠山市)にも目前の篠山川に琵琶が淵・琴弾滝があり、水底から琵琶の音が聞こえてくる…と。

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