日内城 丹波市

日内(ひがうち)城へは河勝山正法寺(曹洞宗)から山道も通じており登山口として分かり易い。山号は河勝(こうしょう)山と読むが河勝は藩政時代旗本:川勝氏の領地なので領主川勝氏に因んだ山号。日内城址へは社殿背後の踏み跡を辿り山頂を目指すだけ!!。
  河勝山正法寺
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以前の登山では日内城跡とされる3棟三角点の山頂に着き、此処が城跡?と感じただけだった…。ところが見過ごしてきた此の尾根合流点の尾根筋僅か下方に・極小規模ながら曲輪間に二本の堀切を設けた砦跡があった。城域の山上付近は幾つもの山道・作業道が狭い尾根筋に合流する地点は遠目にも(神池寺に向かう県道541からも)コル(鞍部)であり、タワは一時休息のコバともなる地形にある。
 片堀切状が尾根合流点に乗り並走する山頂への道だが、城遺構は此の北(前方)にある!!
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「丹波志」古城の部には:珍しく城名さえ記され「加茂郷奥村東にあり峰に堀切あり・黒井の枝城なり…内ヶタワと云う…黒井攻めの明智軍は天田郡千束細見辺りより氷上に越え…」とある。幅狭い尾根上に曲輪域確保の切岸等は曖昧で自然地形に近く、この程度が曲輪なら山頂(点名:奥村)を目指す尾根上にもみられる!!?。此処からの眺望も・眼下に戸平峠を市島町牧や喜多へ降ってくる街道筋や、明智の小富士城は望めるが黒井城は望めない。
 二重堀切を挟む曲輪群
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日ヶ内城:三角点354m(点名:奥村)山頂近くになってくると黒井城も見えてくる。山頂からは県道59号の市島町戸平(とべら)・三和町草山側の街道筋を見下ろす。木々が伐採され見通しよくなっているが自然地形の広い平坦地形からは、曲輪・帯曲輪等遺構の判別確認も出来ないが、目的からも明智軍侵攻を知らせる狼煙台機能はあった様。 
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氷上郡志等には山頂に小規模な曲輪があり、黒井城に対し天田郡側から侵攻する明智勢の動静を窺う為に築いた砦には赤井(荻野)氏の臣:高見対馬守の監視所・狼煙台との見解。伝承に激戦・落城悲話さえ遺る日内(ひがうち)城だが郡志・町史では山頂部を指しているようで遺構等説明も不詳。
   日内城山頂部
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地元にさえ忘れられた山城は多いが、「丹波志」には堀切あり・内ヶタワ…とあるが、Webにさえも訪城レポートが極端に少ない城山へ20年ぶりに再訪してみた次第。城跡とはいえ掘立小屋を建てる余裕もない幅狭い尾根上の小さな山城の合戦模様を伝える伝承等からは…↓
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黒井城攻略の第二回目会戦となった天正6年(1578)宮津方面から南進してきた明智光春は福知山で軍議を開き、小野木茂勝(300人)は市ノ貝~上鴨坂を経て白毫寺道。明智光春(1000人)は上竹田から市島・勅使へ。そして藤田伝吾行政の500人が千束街道から…と三方から全軍が黒井城へと進軍。日内城に関しては此の現:県道59号沿いを三和町千束より戸平(とべら)峠越で来襲した藤田伝吾隊により・近くの岩倉城共に落城する。詳細はHPの日内城を参照ください。



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