若き徳川家康の城:浜松城

浜松城の前身は永正年間(1504-21)東海に最大規模の勢力を誇った今川氏による一支城としての曳馬(引馬=ひくま)城築城説が有力で、其の重臣:飯尾氏が在城していたが、徳川家康が元亀元年(1570)武田信玄の侵攻に備え引馬城を攻略し・本拠を三河岡崎から遠江(とおとおみ)の曳馬城に移し浜松城として城域を拡張・改修を行い城下町の形成を進めた。
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元亀3年(1573)信玄の挑発に乗り城を打って出た家康だが、一方的な敗北を喫し逃げ帰った往時の浜松城は堀・土塁による土の城。天正14年(1586)在住17年で家康は本拠地を浜松から駿府城(府中城)に移した。以後天正18年(1590)からは豊臣秀吉の重臣堀尾吉晴が入る。嘗て城主を務めていた丹波黒井城の石垣も野面積みが有名。
 若き日の家康公銅像
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穴太衆による信長の安土城石垣の石積は一躍天下に知られる。不揃いに思える野面積みは堅固に積み上げられた荒々しさが寧ろ美しく、隅部に縦・横交互に石を組む算木積みは・石材の特徴からか顕著に見られる部分が少ない?。関ヶ原以前なので穴太衆(近江坂本…)を雇っての工事だったかは不詳だが、割り石を使わず自然の石そのものを使う築造技術は取入れられている!?…
 天守門の鏡石
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堀尾氏在住の数年間で天守閣を含み石垣の城を築く大規模な改修がなされている。慶長5年(1600)関ヶ原合戦以後:歴代浜松城主は徳川家譜代大名に引継がれ、縄張り改変や改修も進められてきたとおもわれるが、堀尾氏在城時期に創建された天守は17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わるとされる。
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しかし家康の徹底した城破は旧跡一切(石垣・井戸・堀を含め)が地中に埋もれ、徳川築城の大阪城を見るが、嘗て秀吉家臣の城の中心・天守台に石垣積み…!!の築造が許されたものか…?。更には東海道街道筋・城下町 も再整備されていく。浜松城(浜松市中区)は江戸幕府(徳川政権下)の歴代城主のなかには後、幕府の要職…等に登用され出世したことから出世城ともよばれるようになった。
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浜松城見物には先のブログ浜松城周辺施設に記した「浜松市役所」東隣にある家康公鎧掛松から…天守を正面に進み、城縄張りや発掘調査により確認された遺構…等の説明・解説板が設置されている南広場から向かう遊歩道は浜松城公園内本丸跡に入り、此処で”若き日の家康公銅像”に初めてのご対面。
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家康公の像は「勝草とも呼ばれ目出度い歯朶(しだ)の前立て(兜印)を手に持ち、穏やかに浜松城下を見守るかのような雰囲気で立つ。浜松城の野面積み石垣・石段に囲まれた本丸内。
左上方の主郭(主曲輪の天守曲輪)へと天守門(天守台に対する東櫓門)を潜ると昭和33年(1958)市民の浄財により復元された模擬天守閣が建つ。天守門は
 浜松城案内Webに何故か紹介されていない?「鉢巻石垣」の「屏風折れ」
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平成26年(2014)3月復元された。なを天守門の両門脇に据えられる巨石「鏡石」は城内スポットの一だが、昨今のブーム!として、石垣・石塁にゲーム感覚でハートマークを見つけるパワースポット探しも流行っているとか…。天守曲輪の東斜面の上半部に積まれた「鉢巻石垣」の「屏風折れ」は防御・攻撃戦術的にも、側面からの攻撃を可能にする「横矢掛り」や竪石塁(竪石垣!?)等、
 登り石垣!?”まぐさ石状石列下部は新たに発掘調査で発見された石垣部”
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優れた実戦的石垣手法だが、これらについては何故か?…不思議なことに市や個人サイトの画像等に触れ説明されているものを見ない…!!?。土塁跡の高まりを感じさせるところもあるが…主要部を駆け足で巡っただけでは見残しも多い…  主にWikipedia及び「浜松城跡案内板」を参照

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