池ノ谷主計屋敷Ⅰ 丹波市

丹波市内にも中世(鎌倉~室町期)戦国史に城塞があったと云う遺構の片鱗さえ見えず「丹波志・(旧)氷上郡志・・・」等史志・郷志類に記録・記載もない“忘れられた古城”は多く、以下の美和砦上牧城(市島町)・新才城平松城(春日町)・後谷西砦長野城常楽砦四ノ山砦井中城鴨内城(氷上町)・譲葉山城毘沙門砦(柏原町)・西倉城穴裏峠城(青垣町)・・・等々を(仮称)名で過去に訪城レポートしている。
池ノ谷主計屋敷?:主郭側の高い切岸と空堀
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地誌(山南町誌:昭和63年版)に「北の城山の峰に城主:池ノ谷主計屋敷跡があった」…とのみ記載される居館?を2005年~に訪ねているが、今回は城趾から更に北東へと背後の関電送電線鉄塔を越えて延びる尾根上に見つけた城砦遺構(曲輪・堀切・・・)を案内を乞われ中世城郭研究家との再訪。池ノ谷主計屋敷背後から送電線(六三)鉄塔のピークを経て、更に城域を遠く外れて延びる北尾根を薄れた往時の記憶を辿る。堀切・曲輪群を見るが此処であったか!!?、もっと先ではなかったか?…とも定かでないが!?。
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池ノ谷主計(いけのやかずえ?)屋敷はJR谷川駅西方の玉巻から県道86号で奥野々を柏原町下小倉へ抜ける山峡の東側を街道に沿って延びる低丘陵の南先端部に位置する。街道筋の西側には玉巻城(久下城)・東側(JR谷川駅北に迫る)丘陵の城山227mに”池ノ谷主計(いけのやかずえ?)屋敷”があったと云う!?…が地方誌史等に城趾としての記載はないが、遺跡分布調査報告書(旧郡教育委員会)には「…屋敷」として載せてある。
 池ノ谷主計屋敷?:空堀から上り土塁を主郭入る
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源頼朝の挙兵には真っ先に参軍し、その忠誠に「一番」旗と家紋を賜り、後に栗作郷(久下・上久下地区)地頭職として来住・足利尊氏が篠村挙兵の際にも玉巻城築城主久下弥三郎時重が一番に馳せ参じた。弟直義と争った観応の攪乱(1351年)に丹波に逃れた尊氏、石龕寺に留まった嫡男義詮を仁木氏や久下一族が護衛。尊氏父子の危難を救った功績は大きく時重・子の貞重・頼直・幸興ら久下一族は丹波・和泉大鳥(鳳!)庄・飛騨石浦郷、武蔵久下郷・丹後国河守庄の代官・宮津庄の地頭職等、所領10数ヶ所を与えられ丹波国の有力領主となっている。
 池ノ谷主計屋敷?の主郭から空堀沿い南斜面に見る一条の竪堀  
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守護山名時氏のときの守護代久下弾正忠頼直(観応元~2年 (1350‐51)…が池ノ谷主計屋敷の主【時重の二男:久下(池谷)頼直】で久下氏が隆盛を極めた最盛期。以来16代360年に亘り玉巻城を本拠の久下氏ですが、”池ノ谷主計屋敷”自体:(池谷)玉巻城の支城であったかのか、池谷を称し遺構名に起因の?久下頼直含め城史一切は不詳。池谷には其の後荻野氏子孫?、播州大志野城(黒田庄町岡桂松山城?か極楽寺構居?)の後裔久下清雄?が来住したとか…!!。今回の訪城はJR谷川駅北背後:南麓の池谷から正面の急登谷詰めで城への直登。「池ノ谷主計屋敷」についてはリンク付けしているホームページを参照してください。
"山椒太夫" 安寿姫塚にある歌舞伎絵の絵馬(舞鶴市下東)
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余談ながら池谷は朝倉山椒の特産地だったが、各所に山椒畑を持ち手広く商いした実業家だが、むかしばなしの「安寿(安寿姫塚)と厨子王」や森鴎外の小説“山椒太夫”丹後由良の長者山椒大夫のモデルとなっているのが久下五郎兵衛で”丹波史年表に天慶8年 (945)丹後由良に移るとあり、田邊府志には…氷上郡の人なり…との記述も…(次回 Ⅱに続く)

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