池ノ谷主計屋敷Ⅱ 丹波市

先に池ノ谷主計(いけのやかずえ)屋敷Ⅰ(居館?)をUPしたが、「丹波戦国史」・丹波志(寛政年間?)や氷上郡志…等に古城としての名もない埋もれた城の一つ。以前(2005年~)奥野々峠に向かう県道86号沿い・玉巻や松ヶ端付近より城跡を長野へ下っているが、今回はJR谷川駅北背後:池谷地区からの正面正攻法で?。池ノ谷主計屋敷の名は玉巻城主久下時重の二男久下(池谷)頼直に起因するものか?。
  福𠮷稲荷曲輪(池ノ谷主計屋敷東出曲輪(仮称)北尾根筋の平坦地形
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南北朝期:久下一族の最盛期には細川氏清から丹波守護代を命ぜられたのが此の久下頼直。守護代として何処に居館を構えたのか、山上遺構が主計屋敷とも思えず:城としての城史(時代や城主の変遷…等々)も一切不明?。高低差4-5mの高い切岸下には埋もれた堀切(尾根幅が広い平坦地形なので堀切りというより空堀状?!!)。切岸上へ斜上する「上り土塁」を荒れた主郭内の小さな曲輪に入る。
 池ノ谷城北砦(仮称)の曲輪段
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とるに足りない小規模城郭だが、主郭の大堀切南斜面に沿って平行の落ちる竪堀が一本・更には主郭西南曲輪段端にも南斜面にと、都合二本の竪堀が確認出来たことで城縄張遺構として少しは格も上がるのかな…。丹波守護代:久下(池谷)頼直の居た南北朝時代:此の城に拠ったか?不詳。荻野・赤井氏に降りて以後、城主も代わり城も改修されてきたか…等の城史も不明…。
 池ノ谷城北砦(仮称)の浅い堀切
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池ノ谷主計城から北へ延びる尾根上…本城からは送電線鉄塔までも随分と離れているが、更に辿る尾根を(大河城)からの尾根分岐より先へと進むと、堀切を伴う小規模な城郭遺構がある。久下氏領内の柏原町下小倉から奥野々峠を越え、久下氏本拠の玉巻城へ繋がる街道監視砦とは推察出来るが…「池ノ谷主計屋敷」から3km以上?ある広範囲の城域は出曲輪にしても遠過ぎる。
 東尾根筋(曲輪!)正面に福吉稲荷主曲輪:稲荷社は右手へ
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池谷地区よりも奥野々・大河・北大田地区からが近く、城砦名に窮するため池谷北城ではなく便宜上池ノ谷城北砦と<仮称>する。黒井城支城の高見城の監視砦なら石戸坂を山南町側へ越える出入口・金山城八幡山城から下小倉を奥野々峠を越えての街道監視に当った砦か?…。それとも戦乱に逃げ場のない山麓に点在する玉巻・長野・池谷・大河・北大田・奥野々…等の村人等が避難する「逃げの城」?。広い平坦段の北端に堀切り・100m程下方に三段ほどの小曲輪を見る。
 福吉稲荷曲輪と稲荷社間の崩壊斜面は空堀(肩堀切)状!?
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福吉稲荷(此処も曲輪!?)池ノ谷主計屋敷への今回取付点は池谷地区:登り口に先祖供養:法華経の一石一字供養塔が建ち、右手麓に個人墓地?が点在するが、池谷公民館背後から墓地脇道を奥に延びる福𠮷稲荷参道が尾根筋近い稲荷社まで続き、今も?地区民により例祭が執り行われているよう。此の社殿を含めた?一帯に数段の福𠮷稲荷曲輪<仮称>遺構があり、池ノ谷主計屋敷への大手門なり木戸口(番所)に充る東出郭か?。
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現在ではJR下滝駅の西や大田地区で南へ折れ、JR谷川駅前を通る延喜式旧山陰道(県道77号)は東山(鍋倉城北山麓)に迂回?するが、「福𠮷稲荷曲輪」は篠山川に最も近接し旧街道筋が併走する位置にあり監視砦としても適地。「池ノ谷主計屋敷」程の広い城域を持つが低い曲輪段だけ?。稲荷社側に大きな空堀状・主郭?北背後に片堀切状の崩壊地形を観るだけで防御施設を見ない。

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