推行舎Ⅱ 清雲寺(神宮寺跡地!?) 丹波市

小川小学校の前身=”崇廣館(柏原藩校)支校:推行舎”Ⅰ から続く
依藤平八郎(方敬)は代官として領民から畏敬せられる傍ら、和歌を嗜み小野藩第9代)藩主:一柳末延に招かれ 天保7年(1836)から天保12年(1841)に京都に移るまで藩校:帰正館講師として和漢を教授した国学者:野之口(大国)隆正に師事した。其の後:姫路藩(?嘉永元年(1848)・津和野藩(嘉永4年藩主により津和野藩に復帰)しており
 日吉神社と東隣の公民館
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江戸・京都・姫路・津和野への頻繁な往来途中!?の嘉永3年(1850)野之口隆正が依藤平八郎(方敬)宅に招かれたとき詠んだ[いたり山]の歌碑建立は門人の依藤方敬や藤井秀澄(井原の医者)の発起によるもの。野坂代官所平八郎(方敬)は天保10年(1839)野坂寺子屋(松寿軒)を開いた。藩政下の小川地区には他にも岩屋の酒井某個人宅、井原には清雲寺・霊雲寺…等の寺や個人宅を開放した寺子屋があった。
  清雲寺跡の石垣!?
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明治元年(1868)神仏分離・廃仏毀釈運動のなかで日吉神社神宮寺:清雲寺(日吉神社東隣の現公民館の位置!!?)が廃されると明治5年の学制発布1-2年後:山南町誌・小川村誌・小川村史年表によると明治6年(1873)霊雲寺(清雲寺の誤りか?)を仮教場として創立され(村史年表)、小川地区五ヶ村(南中を除く)組合立となったのが<崇廣館支校:推行舎で、現:小川小学校の前身)とされ明治6ー7年頃の「推行舎銘入り屋根瓦」が遺る!?。
  阿弥陀堂前の五輪塔・碑石
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素直に村誌・町誌に云う”日吉神社東隣の廃寺:清雲寺(現:公民館)跡が”崇廣館支校:推行舎”ではあっても、藩政では村ごとの・其の村内でさえ細分化される程に所領・知行所は幾度となく藩主も代わるなか、殊に明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈運動に寺子屋は学制発布迄の短期間とはいえ、野坂寺子屋松寿軒(天保10年1839)から明治6年(1873)まで34年間変らず引継がれてきたかは知らず!?、まして其の間:学問の道が閉ざされていたとも思えない
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しかも学制発布に日吉神社東隣にあった!?とされる”推行舎”が既に他所”廃寺清雲寺の修養道場なり旧清雲寺寺子屋”にあり、他の学問所!?も同様「崇廣館(柏原藩校)に付属の支校”推行舎”となったが突然「推行舎」銘入の瓦葺き屋根で新設されたとは思えず。清雲寺(神宮寺)は神社東約150m程茶臼山(井原城館)の山麓に広い数段の平地があり、此処に清雲寺(修養道場?)の寺子屋があったものと推察!!?。
 阿弥陀堂跡(中央)周辺に残る大量の葺瓦
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現:霊雲寺(小川小学校東側)も松岡某が住職の頃付近の子弟を集め学問を教えていた寺子屋があったが、跡地には五輪塔・供養碑…の他:真宗( 浄土宗等)の本尊”阿弥陀如来”を祀る御堂跡がある。廃寺清雲寺の宗派は未調査だが後:霊雲寺(臨済宗)の修養道場としても使用されていた(平成26年建立標碑が建つ)。霊雲寺なら本尊は釈迦如来か薬師如来が本尊。清雲寺修養道場を仮教場としての「推行舎」があった。
  「阿弥陀堂」は廃寺:清雲寺の境外仏堂や修養道場跡か?
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崇廣館支校:推行舎も明治9年には「推行校」として現小川小学校校庭付近に茅葺きだが建てられ…時代の流れのなかに幾度となく移設や地区の加入・離合で校名改称等変遷はあるが小川小学校の沿革史等を参照出来るので省略。
自治制発布50周年記念事業として発刊された「小川村誌 第一集(昭和13年)」・「第二集(昭和27年)」・「第三集(昭和30年)」解村し山南町に合併の為編纂:廣瀬平三郎…及び「山南町誌(昭和63年版)」を参照した。氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(氷上郡教育委員会1998・3)には丹波志古城部にある”井原北東の小山の屋敷跡(井原城館)”や霊雲寺が修養道場として使用されていた廃寺清雲寺(日吉神社神宮寺・修養道場?・阿弥陀如来”を祀る御堂跡…等)・推行舎・推行校…等について所在位置・コメント等は空白のまま
  日吉神社・崇廣館支校:推行舎跡

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