岩屋山「石龕寺城」Ⅲ 丹波市山南町

石龕寺について此処まで初冬寂景:石龕寺岩屋山「石龕寺城」Ⅰ岩屋山「石龕寺城」Ⅱに記した。丹波市内の古刹では養老2年(718)法道仙人開基を伝え「丹波比叡」と称され、元弘3年(1333)護良親王が尊氏討伐に挙兵した神池寺・養老5年(721)行基開基「丹波の法隆寺」とも称される達身寺とともに用明2年(587)物部守屋を征伐した聖徳太子により、
「石龕寺城」奥の院:奥に将軍屋敷がある
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岩窟に堂を建て毘沙門天を本尊として祀ったのが石龕寺(現:奥の院)の草創と云い丹波でも最古参の名刹:古刹が石龕寺。以来:修験の道場(山岳寺院)としては鎌倉~室町初期の応永年間(1428)頃には隆盛を極めていた。京を逐われた足利尊氏・義詮父子が久下氏を頼って丹波石龕寺に二度遁れてくる。一度は建武3年(1336)後鳥羽天皇方に敗れ京を退き、二度目は正平6年(観応2年 1351:観応の攪乱)
 石龕寺町石道(表参道)
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足利氏の支族:桃井直常(ただつね)・尊氏の弟直義(ただよし)との”桃井の合戦”に敗れたとき。尊氏が辛うじて隠れ難を逃れた二重川(足利橋)や嫡男義詮が石龕寺城に留まっていた際に勝運を祈願したと云うててうち栗の伝承はこの際のもの。尊氏が再挙して九州から東上してくる2ヶ月ほどを義詮は岩屋山石龕寺(奥の院)の籠もり、仁木頼章(佐野城主<高見城の前身で:建武3年-康永3年の丹波守護職)と
 石龕寺町への寺坂道(裏参道):町石の基石
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弟義長には石龕寺の衆徒・久下・荻野・波々伯部・中澤(長澤)等丹波の土豪2000余騎が石龕寺に集結:護ったとある。郷土史誌等には石龕寺城(岩屋城・三輪城 549m)に入り、足利尊氏所縁の名城ともされるのだが?、仁木頼章が高見城の前身:佐野城を築いたのが嘉暦2年(1327)。以降は:中世以前(南北朝期)の石龕寺城は岩屋城(三輪城 )ではなく”石龕寺城=奥の院”と仮説?しますが、中世戦国期には高見城塞群として石戸山城(仮)・岩屋山城(三輪城)・頭光嶽城と寺坂峠城(仮)が機能したのでしょう。
 寺坂道(寺坂峠)尾根直ぐ先に寺坂峠城・参道(廃道)は奥の院下の地蔵堂へ
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京を逐われた足利尊氏・義詮父子が久下氏を頼って二度も丹波石龕寺に遁れたのが修験の山岳寺院「石龕寺城(岩屋城)」で高山寺城(仁木氏は再建した佐野城<未だ柏原町側の高見城ではない!?>に移っている)同様:城郭化したものか!?。次回:岩屋城(三輪城)は金屋鉱山跡で分断されるが、南尾根続きに奥の院【石龕寺城(岩屋城)】背後には頭光嶽城<仮称>があり中世:三輪城(岩屋城)の南出曲輪と思えるが、足利尊氏父子が拠った僅かな逗留期間に、
  寺坂峠城:主郭北面(奧の院側)に二段程曲輪・塹壕(?空堀)も観る
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氷上・柏原・山南の三方(別称:三輪城の起りか?)に通じるが攻撃も!!?…当初から険しい山上部に詰城が築かれたとも思えず、石龕寺城(岩屋城)の詰城?的存在は頭光嶽城<仮称>。此の南尾根を下る寺坂峠には寺坂峠城<仮称>がある。久下氏本拠の山南町久下の金屋から通じる奥の院への寺坂峠の二城は、久下氏が石龕寺城の南大戸(表門)を守備する監視の城砦だったか?。石龕寺城(奥の院)自体は将軍屋敷跡等…広くはないが、
 焼尾神社(仁治2年(1241)創建:丹波市最古の「石龕寺」の鎮守
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地蔵堂に至る周辺に数多の僧坊跡・屋敷跡からも修験の講堂か?「御所の裏」の名もある。奥の院を取り巻く周囲の細く険しい露岩の尾根筋にも、岩屋城(三輪城)や頭光嶽城<仮称>が臨戦的な城砦が築かれ、石戸山城(仮称)西面の谷筋(金屋鉱山跡を見ても)に水場もあり、現:石龕寺毘沙門堂の西に祀られる焼尾神社(仁治2年<1241>創建を伝える「石龕寺」の鎮守)も既にあって、周辺に多くの将兵の駐屯・兵糧集積貯蔵も可能。

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